俳句は…心遊び…である

                                    …これが私の俳句だと言えるもの

                                                      児 島 庸 晃

 心遊び…作者の心の状態が定まらないで揺れているとき正常な安定した心理に戻す、その時にいろいろな癒しを求めて心が動く、その様子を表現して示す。日々の生活の繰り返されてゆく中で俳句での心遊びは大切である。感情の揺れをコントロールし安定させる気持ちの切り替えは俳句で出来る。

   月もまた前傾姿勢寒波来る   岡崎淳子

   晩年の右手に弾む手毬唄    岡崎淳子

句集『蝶のみち』より。目視により心に映った作者自身の思考の形が「月の前傾姿勢」であったのだ。寄物陳思によって編み出された心の弾みは「手毬唄」にもしてしまう。上弦か下弦の半月の前屈みの姿を、作者は自分自身として確認している。前進しようとする心の姿勢である、半月が前傾させようとする形を作る時、自分自身を投影させ、寒波へと立ち向かう心の安心を受けとっている。その時の心の弾みこそ、心を自由に遊ばせる岡崎淳子さん自身であったのだろう。日日の一切から解放される楽しく美しいほんの一瞬。ここには心遊びがある。正に寄物陳思による美意識が込められている。生きていることの実感が一瞬、喜びに行き着き心が美しく思えることの素晴らしさ。作者にとっては一瞬一瞬の思いは心の弾みとなって蘇生するのである。心遊びにより癒されてゆく寄物陳思であった。  

 毎日の日常の中で傷つき悩む苦しむ胸中。癒しの心で心情を安定させ、明日への弾みに向かう心を育てる。それは心遊びであろう。俳誌「歯車」の代表であった頃の鈴木石夫先生は、今の私たちにこの心遊びの重要性を懇切丁寧に諭されていたように思う。生きていることの楽しさを俳句にすること。生活の日常を俳句として心遊びする、心を癒して人生を楽しくする。俳句を作り続けることの意義を…遺して他界。

 …これが私の俳句だと言えるものが出来るまで続けなさい。

改めてこの言葉が心を打つ。決して忘れてはならない。心遊びは私の俳句である。私がわたしを癒すことでもある。石夫先生の心遊びの俳句とは…私が俳句を作り続ける所以である。