良い俳句とは …どのように理解するのか

          俳句作品を生むことの心境は心花の美しさ

                 児 島 庸 晃

 これは実例であるが先日俳句仲間との会話のなかでのこと。長年俳句を作り続けていると、だんだん句が悪くなってきたような感じがするとの会話が話題になっていたのを、私はいま思い出していた。そのときはそれほど気にもしないで聞いていたのであるが、日数を重ねるにしたがって俳句仲間の言葉が私の俳句世界の核心のことのように、とても重みのある言葉のようになり、いろいろと脳裏にへばりつき離れない言葉になってしまった。それは何かと言えば…長年俳句を作り続けているとだんだん句が悪くなってきたような感じがする…の言葉だった。そして長年経験を積み重ねてゆけば良い俳句にならなければとも思っていた私。しかし私自身も、現実にはそれほど優れた秀作とは言える句にはなってはいないのだった。

 さて、と思いが募る日々となり、私の悩みが始まっていた。私は十七歳の高校生の頃俳句への入門となりもう六十余年が来ようとしているのである。だが少年時代の、しかも俳句そのもを殆ど知ってはいな時の句には、未だに魅力を感じ、その当時の俳句の方が、なんとなく惹かれるものが存在しているようにも思える。日々思考の渦の中でさ迷い、やっとその結論らしきものに出会えたような気持ちが、現在の私の心境である。

 そこで得た答えは俳句を作るときの大切な心得があることを忘れ、日々の句作りに慣らされてしまっていて俳句作品になることばかりを考えていたのではなかろうか。つまり俳句らしい俳句を作っていたのだろうとも思った。わかり易いことばで説明すれば、俳句としての技巧、言い換えればテクニックばかりが先行して言葉を巧みに操っての句にしようとしていたのである。感覚そのもの、感性の鋭さがなくなり、上手な俳句ばかりを作ろうと努力をしていたのである。このことは私の反省ともなるのだが、上手な俳句と良い俳句は根本からして同じものではないのだった。上手な俳句イコール良い俳句ではないのである。だが句会などでは上手な俳句の方が高点句になる。得てして上手な俳句は点が入る。作り方が上手いのである。句を採らされてしまう。多くの句数の中からの数句の選句は数分の出来事なので、感性の見事な俳句を受け入れる余裕がないのが実情である。

 俳句作品は作者自身の心花なのであろうかとも思う。作者が自分自身の世界を作り上げることなのである。…このことを作すことが出来得た句を心花を咲かせ尽くしたときの個性と言う。次の作品を見ていただきたい。

   春光に忘れ上手になってゆく   福島靖子

俳誌「歯車」369号より。この句は作者自身の句の世界を広げるのに俳句独特の操作などはいっさいない。けっして上手な句の作り方ではないように思う。だがこの句には作者である私が伝達しなければならない最も大切な心境がいっぱい込められている。そしてそのことがしっかり出来て伝達されている。否、自分を励まして日々を邁進満足している心境の安心がこの句を読む者にプラス思考されてくる。まるで心の中いっぱいに花を咲かせたかの如き美しさにも見える。…このことを心花を咲かせ尽くした個性と言う。その言葉とは「忘れ上手」である。俳句言葉は作者の心模様を映し出しているもの。ここにはその場の状況を心境として取り込まれているもの。感覚、謂わば感性が生まれてのもの。ここには心が強く存在するもの。…句を上手く表現しようなんて、これまでにはない俳句にしようなんては、思考の範疇など、入ってくる隙などないだろう。何気ない言葉の中に存在する俳句言葉には、技巧や上手さのある表現はいらないのである。たった一語「忘れ上手」の俳句言葉があればいいのだ。

   マニキュアの爪の重くて寒時雨   畠 淑子

俳誌「歯車」380号より。この句も技巧のあれこれを取り入れることなど全く無用の表現が際立っている句である。それ故に句そのものが素直である。そして素直であるからこの句が読む者の心を刺激してより深く心へと染み込んでくるのだ。この句が好印象の理由である。私は、いまこの句を知ってから人の心の中で漂う日常の、それも日々の生活の映ろいを表現するのには出来るだけ句そのものを作り込むなどしないほうがいいのではないかと知る事になっているのだ。その表現の根源をなしている俳句言葉「爪の重くて」の感覚表現の自然発生は、本当にこの作者自身の心に堆積し続けている苦しみなのだろうとも思える。この気持ちは心花を求める感情である。寂しさを打ち消すときにどうしようもない気持ちのあることを誰かに伝えたく日々を過ごしていたのであったのであろうか。暗から爽へとの変革の気持ちは俳句言葉となって「マニキュアの爪」へと心を繋ぐ。…この俳句言葉こそが心花なのである。この作者の心思いには上手な句にしょうなどと思う気は全くないようにも私は思う。感覚を素直に受け取り無技巧の表現にすることこそが良い句になる条件なのである。

   草笛を上手に吹いて旅終る   小池万里子

「すずかぜ」第4号より。この俳誌は「青玄」終刊後誕生した「暁」より分離独立したもので代表は政野すず子さんである。上手な句といううより良い句を作る俳人が集合しているようにも思える。その中でも小池万里子さんは特にそのように思う。作者の思いを花のように心に咲かせることを…心花というのだが、この句は作者自身が句を作ることを楽しんでいる。作りながらも、その時の心の在り様をこの句を読むものにも共有させている。その俳句言葉とは「上手に吹いて」。この言葉には無理がないので自然に溶け込める。それは何より技巧を重視しない自然発生言語をそのまま情緒に取り入れての表現であるからである。技巧が前面に突出してくると、どうしても観念語が目立ってくるもの。それは作者の思いを無理に強く言葉に込めようとするからである。この句には自然発生的に生まれた感情を素直に捉えて情緒変革がなされているから、読者にはより素直に受け入れられるのである。良い句とは真心を素直に受け取れるように表現された情緒の深くある、或は情感の濃ゆく滲みだされているものである。

 俳句を作るのに実感が、どれほど大切であるのかはそれぞれの俳人の共通の認識であることは承知の事実である。しかしこの実感が作されるのにテクニックは必要としないことはあまり知られてはいない。何故ならば作者自身が受け取った感覚は素直な作者自身の情感だからである。へんな技巧を労すると実感そのものが壊れてしまい出来上がった句そのものに情感が残らないからである。そこには素直な俳句言葉がなくなっているのである。次の句を見てもらいたい。

   父と母正座していた敗戦日   広瀬孝子

俳誌「歯車」342号より。この句のどこを見ても技巧らしき工夫はない。だが作者の受け取った実感ほ、読者に充分に伝達されている。それも目に見えるようにその時の表情まで実感出来ている。その心を象徴する俳句言葉が実感の強さまで伴ってあり、それゆえの作者の心情まで理解出来る。その言葉とは中七にある「正座していた」である。良い俳句には技巧などを考慮する隙間などはないのである。…と言って何もしないのではなく適格な言葉選びはいる。情感を損なわない純粋な素直な心の象徴はいる。それが「父と母」なのである。俳句は作者の思考を素直に暖かく心に残せるように思える言葉を選ぶことでもある。その真髄はプラス思考であり常に心花への希久なのであろうか。私は今も思うのだが情感としての実感は最も大切であるのだ。技巧などによる句への強調はいらない。そして良い俳句のための試練には実感を壊しかねないテクニックはいらない。

 俳句は十七音律の特異スタイルだが、ことほどに言葉選びを適確にしなければならない短詩形文芸は他にはないだろう。一語一音たりともおろそかには出来ない句体なのである。それ故に従来より技巧が重んじられてきた。そして多くの俳人が上手な句を作ろうと努力してきた。いろんな形を試み実行してきた。だがことごとくこの試みは形骸化して、本当に良い俳句とは何かを、いま再び俳人は思考し始めている。ここで区別しておきたいのは技術と技巧は違うのである。技術とは、その手法だったり手段のこと。技巧とは、技術にさらなる工夫をして職人技とでも言える吃驚してしまうような技のこと。ここでこの技巧が問題になるのは職人技のことである。なるほど、とか、やっぱり、とか思わせる、この職人技は画一化すると実感を壊してしまうのである。作者の真実の実感が、何時の間にか消滅してしまってる事がある。

   九十の恋かや白き曼珠沙華   文扶夫佐恵

「現代俳句」3月号、…私の愛誦句…より。実に適確な言葉が作者自身の心との対話のなかに定着している。この句、下手すると単なる言葉だけの羅列になるのだが、目視がしっかりと出来ているので言葉が形骸化しなかった。そしてこの句を支えている作者自身の内面の表出が技巧を思わせない表現言葉になっているのだ。「九十の恋かや」の俳句言葉は素直な実感言葉なのである。自己との対話するその深みは真実感そのものである。変な工面や工夫をすると実感が崩れることを作者は心得ていたのであろうか。この時代の俳句にしては珍しく技巧の目立たない句でもある。それも「曼珠沙華」の「白き」と朱色ではない「曼珠沙華」を見つけたときの驚愕を感覚するとき、作者自身の身体の衰えを「九十の恋かや」と感知しての情念は技工では表現はしつくせない心象であったのだろう。感じたものを思ったままに表出することであったと思われる。良い句とは感性をどれだけ強く表に出せるかである。ここには技巧などはないのだ。どうしようもないほどの重みと深さがある。実感は技巧では表現できないのである。内心には心花が宿っているからでもあろう。

 俳句作品を生むことの心境は心花の美しさなのである。そして良い俳句は心花を咲かせ尽くし得たときの作者の保持出来ている心境なのでもある。実感の強く表出出来得たときの作者の心は真実であり、緊張感が生まれる。どんな技巧を駆使しても実感により生まれる真実には及ばないのである。よって目視の感覚による寄物陳思は感情が優先する。…この感情が実感なのである。そして実感は作者の心中にあって消えない。

 私は長年句作りをしながらもかなりのテクニックを駆使してきた。だが技巧に頼り技巧の効果を考えてきたが、今や何の意味もない形骸化した句であったのかもしれない。感性が衰え鈍くなると、どうしてもどうにかしてまで技巧に頼り良い句を作ろうとしてきた。そんなにしていてもどうしても満足の出来る俳句作品が得られなかったのである。…そんな私の心境にあって考えられることの一つにはもう一度、しっかりと俳句の実感を見直したい。俳句の原点とは何かを考慮するとき最大の思考を引き出すこととは、読者にどれだけ多く、どれだけ深く、どれだけ長く、そのときの感動を保持している事が出来ているかであろう。その基本になるものが感動すると言う人間本来の暖かさであり、そのための素直さが大切でもあろう。素直に感動することが俳句人の心なのでもある。そのためには、そのときの目視より作者が受け取り得た実感が欲しいのである。良い俳句は実感から生まれることを基本にしたい。