心が優しくなれている言葉の成否

             俳句言葉が機能出来ているか否か

                 児 島 庸 晃

 人間独特の情感を深く追求してゆくとそこには本来の言葉の成立と関わっていることのようにも私には思えるようになってきていたいまがある。日常の生活を順調に過ごしてゆくには言葉の齟齬が発生しないように気を配ることなのだが、気をつけていても言葉の誤解は生じる。…俳句言葉も誤解や曖昧さのためその句は伝達出来なくなる。その多くが確かな言葉としての役目をなさず機能していない。それは物事を観念として思考するからであるようにも私には思える。最も大切な情感としての作者自身の感性を素直に感じていないからのようにも思える。誠に簡単なことなのだが…。何故思ったまま、或いは感じたままを素直に句にしないのか。自分自身が素直になれないのか。物事を作り物にしようとする。このことが言葉を機能しなくさせているようにも私は感じるようになった。

   二三本申し合わせて遅桜    和田悟郎

句集『人間率』(平成17年)より。この句の素直さはまともに読み手にも伝わる。実に心良く伝達されて、そのように思える納得も出来る。作者自身と読み手を繋ぐものは何かと言えば作者自身と読み手自身共に素直になれる安心した安らぎなのだ。何が伝達の基本になっているかといえば「申し合わせて」の俳句言葉。「申し合わせて」の言語は句の作り手と読み手の間を行き来してお互い齟齬のない俳句言葉になっている。それは人間自身が素直になれているからのようにも私には思える。ここでの俳句に作り手は作り手の情感を読み手に伝達出来ているので言葉は心良い機能を果たし一句の成立がなされているのである。その基本は人間自身が素直になれる俳句言葉を見つけることであった。

 同じように素直に感受することの楽しさが俳句言葉をどれ程機能させているかの納得を問う句がある。

   直角に首曲げて読む秋灯   石堂つね子

俳誌「歯車」325号。この句は人間の仕草に順応しいることを良しと楽しむ作者と、また選ばれた俳句言葉もそれに逆らってはいない姿で生まれた句である。言葉の伝達というものが極自然になされていて心を楽しく励ましてくれている。ここには観念言葉の入り込む余地はないのだ。この素直な受け取りが出来る事そのものが、可能になされていることが、言葉が機能していることなのである。ここには俳句に対する意味としての言葉などは一切ない。意味は説明であり理屈に過ぎないのだ。観念にならないように具象的な言葉の選択がなされることが、作者にも読み手にも無理なく納得されて伝わること。その俳句言葉とは「直角に首曲げて読む」の人間の仕草としての共有言葉であった。「直角に首曲げて読む」の言葉は作り手と読み手を繋ぐ心となったものである。俳句言葉が機能するかしないかは作者により選ばれた言葉が読み手に理解出来るような工夫が自然になされることでもあろう。

 俳句を作すとき、その出来上がった俳句言葉に私は何時も不安な気持ちを抱き戸惑うことはこれまでに何十回となくあった。だがこれで良いのだと断言出来ることもなく、そのまま句にしてしまっていた日々である。いま思うことは…それはその句がしっかり伝わるだろうかとの不安であったようにも思う。その原因の一つが一句の中で何処かに動詞を入れなければ、なんとなく句そのものが定着しないように感じていた毎日がある。使われる俳句言葉が正しい機能をしてくれないように思っていたからである。だが、ある日だった。私を驚かせる句に出会うことになる。

   千代田区一丁目一番地御元日    畠 淑子

俳誌「歯車」332号より。この句は、何一つとして意識的に操作しようとする言葉は何処にも見つからないのだ。その意識的に読み手を誘導し心を動かそうとする言葉が動詞なのだが、この句には動詞がない。全ての言葉が名詞ばかりなのである。それでいて作者の思考は読み手に充分伝わる。こと細かく伝達さてもいる。ここに使われている作者の選択して使われている俳句言葉は…言葉の機能を尽くしていてこの句は俳句として成立しているといえるのではないか、私はそのように思うのである。作者の主張しようとする意思は読み手にもわかるのである。その言葉とは「千代田区一丁目一番地」と「御元日」であるが、この二つの言葉の対比は作者の意志により選ばれた言葉である。その対比とは「千代田区一丁目一番地」と言う、普段は東京のど真ん中にありながら活況を示している中心地。この中心地も「御元日」の言葉により象徴される静寂。この対比をして理解させるのに、読み手を動詞を使って動かすのではなく作者の心で動かせているのである。このような言葉の機能化が完璧になされていることに驚いた。俳句言葉が機能しているかどうかを考察している私にも驚愕の一句となった。

 言葉が機能しているかどうかを思考してゆく私にもどう判断していいのか判らない句はある。それは文法上の俳句言葉の置き方、或いは並べ方に於ける俳句である。俳句そのものが作者の意思のままにどうなっているのかとも思える不思議な感覚に並べられた句である。

   昨日今日から雨の日は雨という字は    阿部完市

総合誌「俳壇」平成17年11月号。この句には文法上から察して述語がないのではと思える句である。俳句言葉は一句の中にしっかりとあるのだが、どうみても、どうなったのか、どうしたのか、どのようになってゆくのか、という決めてとも思える述語に相当すであろう言葉がない。読み手に好きなように受け取って下さいと、敢えて決め手の言葉を提示しなかったようにも思える。強いて言えばリフレインの強みを提示。「雨の日は雨という字は」と念押しをするように自己主張をして作者の意思を述べている。作者…阿部完市は言葉の魔術師とも呼ばれている所以である。しかし私には何を伝達したかったのかは幾度も読み返してみたのであるが理解できなかった。「昨日今日から」と読み手に期待を持たせる導入部。以下展開部・終結部と心を託したのであるが、期待を裏切られた想いだけが残った。

 単純に言ってしまえばその俳句が充分に読み手の心へすんなり取り込めるか否かの基準は作者…作り手の言葉選びにありどのような読み手にも素直な心になりきれる言葉の存在があった。俳句言葉が機能出来ているか否かを検証した私の思いは心が優しくなれている言葉の成否があった。重ねて言えることは言葉が観念にならないこと。言葉そのものが意味にならないこと。機能出来ている言葉には理屈や意味や謎解きなどはない。