……重く美しい言葉が欲しい……… 

             俳句における私性の文体考察

                児 島 庸 晃

 私の心の奥深くに未だに消えないで残っている言葉がある。昭和四十年代の次のことばであった。

…斉藤正二氏は“俳句不毛の時代”だと叫び、兜太氏は“精進の時代”だという。この二者の間にある思考の相違は現代俳句に於ける一つの危機を示し続けている。

この言葉は今日に至るも、私の心に残っていてすこしも進展してはいない。それは何ゆえにそう思うのか。私としては長い未解決連続の時代であった。つまるところ未思考に等しかった。考えてみれば俳句を作るという事は自分を語るという実に単純な思考。私の心を詩的言語に託し表現すること。それそのものが私性の文体であったのだ。

 昨今、殊に思うことなのだが、真に人の心を共感させる俳句などはめったにあるものではないと思えるようになった。これらは個人個人の環境と言語感覚のもたらすところで、過去よりその言語主体は曖昧であった。例えば林檎ひとつをとってみても、その表現は丸くやや甘い酸っぱさのある果実と言う意識が一般にはなりたつ。しかし丸くてやや甘い酸っぱさのある果実は林檎だけではない。他にも多くある。このへんの言語の曖昧さは詩性という面で、人を困惑させてしまう。この曖昧な言葉の観念を俳人は、やや乱暴に扱い、意識としての作者ははるか遠くへ逃げていた。言語主体の行方と意味を考えるとき、俳句の中に現われる言葉は、きわめて私人的であり、意味的であった。作る側にも。読み手にも、それぞれ違った観念としての言葉がある。好き勝手になってくると、思想も、理念も曖昧になってきてしまう。芭蕉の過去より人の思想を揺さぶる共感と呼べる俳句は、その類の底に私性の存在が如何にあるかにかかわり、私性の主張の仕方が問題であった。

 高校時代の私は、秋櫻子の作品に触れるたびにある種の腹立たしさえもっていた。あのじっくりと落ち着いた自然への介入はたまらなく退屈以外のなにものでもなかった。花鳥諷詠の作品に対してさえ、生活意識をこめて考えてみようとした馬鹿げた時代がある。これらは自然への復権でも、自由への脱却でも、意識を貧弱にする何者でもなかったのだ、と思う。

 言葉そのものの主体を社会的な側と私の側とに分けて考えるようになったのは、ずーと後になってからであった。ある日ソシュールの言語論を読んだときにはじまる。ソシュールは言語活動を“ラング”と“パロル”に分け、その言葉を意味と意義に区別している。言葉の意味は社会的・習慣的に定着している意味に重点を置くか、あるいは私個人の場における意味によるかによって、普段は使いわけされているという。社会的な意義に置く意味と、私個人に意味を置く意味によって、言葉はなりたつという。毎日の生活を日常的現実と詩的現実とに仮に分けたとして考える場合、日常的現実には、たしかに意義としての意味の要素が強い。そして詩的現実には、私個人としての意味をより多くもつことになる。詩的発想を内面の抒情と考え、リアリティを内面に求めるとするなら、短詩形の場合、その存在の意味はより私個人のものになってくる。昭和二十八年の中村草田男句集『銀河以前』の跋における発言より端を発した社会性俳句論は、つまるところ、このソシュールの言語論からいえば間違った方向へ向いていたのかもしれない。社会性へ向いた多くの目は六十年安保を境として、人々の心の中を吹き抜け、いまや、過去の産物としてしか意味をもたない。新興俳句の頃、一部を除いては時代の外へ己が放り出されたように、現実は遥か遠くにあった。今その頃の社会性を通り越し、前衛を築いた俳人たちが、一抹の寂しさを感じているのは、このことばの持つ意義と意味の視点の置き方に、当初から戸惑いを感じつつ作句してきたからであろう。この二重性について、いま一度考えてみたい。

 私を大切にしてきた俳人は自己を見つめると同時に日常の現実に対しても敏感であった。芭蕉は円周から中心へ、中心から円周への収縮拡大の中に、自己を発見し、より鮮明なものへと磨きをかけた。兜子も、その第三イメージによるところの戦後に自己の痛みを発見した。俳人は現実の中に自己の存在を見つけている。精神と現実の誓子、人間と自然の草田男および楸邨、人間と社会の兜太しかりである。それぞれが人間に対しての思考をおこなっている。この事はいまも息づいていようとする俳句のエネルギーが私人的でなくてはならないということを意味していうようにも思われる。

   海に出て木枯帰るところなし   山口誓子

誓子の句である。完璧なまでにまとめられた句の根源にあるもの。抒情の底にあるもの…それらは人間として、きわめて私人的である。私人的であり、かつ平明である。この誰もが共有する言葉としての意味は、観念を忘れ去るに充分な意識を人人に教えてくれた。ここにおいても私個人の確認を誓子はじっくりとしているのだ。この私を確認するときの作者の目は、鋭く研ぎすまされた思想の一部を見せる。言葉が意味する私個人の側の存在は、しっかりと間違いなくある。ここに在るところの場面「木枯」と言うイメージと、そして「木枯」と言う言葉の間には、言葉が作者の心を通過するとき、その感情は溶け合い快い。この句全体における作者の心中にある「木枯」の言語、一般的な言語そのものの「木枯」、それに実際の映像としての「木枯」…この三つの言葉が行き来する作者の心中には詩語としての結実がみられる。狭い考え方などではない。この言葉の持つ諸要素をより私のものにしたとき、言いかえれば自分自身の内面が緊張感で満たされた言葉を考えたときであろう。たとえば中村草田男の次の句にしても同じだ。

   耕せばうごき憩へばしずかな土   中村草田男

この句に見られる、自然と人間の調和。ここには伝統的な自然観がある。自然征服と言う人間優位の西洋思想とは違う、自然を厳正のごとく捉える伝統的な客観写生の句にしても、この「土」のもつ言語は、より私性の思考そのものとして表現されている。私たちは言葉のもつ不思議な魔性に、今ままで、あまりにもだまされつづけていた。

   コスモスは病む妻の花 風育つ   柿畑文生     

柿畑文生作品。「歯車」92号、昭和45年11月10日発行に発表されたものである。なんとも純粋に物事を見つめることが出来ることよ。このように表現出来る作者にすっかりと嵌ってしまっていた私を当時は不思議だとも感じていた。ただ単に自然を見つめているだけなのに何故心惹かれるのか分からぬままの日々であったと思う。いま考えるに詩的言葉としての思考が作者の体内を通り抜け美しく表現されていたからであった。日常的言葉としての使用ではなかったことであろう。言葉は表現される前と、表現された後とでは変化するもの。そこには柿畑さん独特の私としての見方、考え方が感覚となって言葉になる。それをセンスという。それそのものを私性の文体ともいう。

 何ゆえに柿畑さんが、このような純化された句を私性の文体に取り入れることができたのだろうと考えた時、或るひとつのヒントがあることが分かった。鈴木石夫先生句集『東京時雨』(昭和32年秋発行)の句集鑑賞を丁寧にしている。その時の石夫作品の一句が…、

   串柿の種背信の味がする    鈴木石夫

であった。

「…これは、そのものずばりと言った面白さがある。渋柿の皮をむき日に干し、竹の串にさした串柿そのものは、随分俳句に詠まれたようだが串柿の種は初めてお目にかかる。それが背信の味がするというのである。著者独特の感覚になるほどと合点させられる一句である」。二十代初めの柿畑さんの心の純化であった。この頃の石夫先生二十代初期の作品。昭和21年、栗生純夫氏に師事、その主宰誌「科野」に加入したころの若者俳句であった。この頃はまだ伝統俳句の全盛期。花鳥諷詠俳句が真の俳句だと思われていたころ。柿畑さんの心に写った石夫青年の私性は如何ばかりであったのか。このときの私性の文体の強烈な印象は、それ以後の俳句人生を全うし得る可能性をも秘めていたのだろう。(俳誌「歯車」19号、昭和35年5月号より)

   傷口にふくよかな朝鶴歩む    前田 弘

俳誌「歯車」代表、前田弘作品。「歯車」95号、昭和46年4月発行の若者時代の作品である。最近の前田弘俳句は問題意識の提示へと、かなりの加速をしているようだが、より人間的な奥深さへとその詩情を豊かにしていた当時の俳句である。ここに見られる言葉の純粋化は日常的現実の私語ではない。詩的現実の詩語としての私語であった。すこしばかりのことで驚きも感心もしなくなった現代人たちにとって俳句の価値は案外、心への問題ではなかろうか。感動という共鳴を失った人々にとって、いまさら新感覚でも形でもない。私性の深化である。即ち私性の文体であろう。日常生活の中にとっぷりと浸り、生きてゆく現代人にとって詩を拾うことは容易ではないのだ。時代に流され自分自身を見失う。そのような中で私の存在を見つけねばならない俳人にとって日常は混沌としている。このような現状の中で前田代表は私の存在を主張してきた。…それそのものが私性への思考を進展させることだった。今も昔も進行形である。第67回現代俳句協会賞受賞はその結果であった。正に次の俳句であったと思う。                

   ぼくよりも遠くへ行ったかたつむり    前田 弘

私の思考を「かたつむり」に託し「かたつむり」そのものに語らせることであったのかと…。これは寄物陳思の心ではないか。「かたつむり」という物を描くことについては殆んどの俳人は表現できる。しかし前田弘俳句は物と言う「かたつむり」に語らせることまでも表現可能にした。私自身の物語の始まりである。そして…。

   アポなしで死神が来る茶の間かな     前田 弘

突然の心臓異常による身体危機に際しても、私自身が俳人であることを、しっかりと意識している魂の素晴らしさ。やはり、やっぱり、俳句を書き続けてゆくことは私性の深化をより強めることしかないのだ。

   ここにいる不思議つくづく冬紅葉     前田 弘

無事の生命が保たれた時の安堵は、本人自身の安堵なのだ。この喜びを語り伝えるのは私である。この実感を伝達する姿こそが詩的現実の言葉でもある。決して日常的現実ではない私情は詩情へと移り、読む者を引き込む。そして緊張感を持たせた。

 現代俳句の現状を思う時、果たして詩情の純粋化はどれほど果たせているのだろうか。過去より現在まで現在人は矛盾だらけの社会で混沌と汚れきって生きてきた。実は純粋であればあるだけ人間の生活は苦しむことになる。だが、そこに詩人・俳人としての大切な精神が潜んでいるのである。自分の思想との対決を現実へ向けて表出できる最大の特色は人間的な優しい詩情に始まるのではなかろうか。人々はより美しく純粋なものへと魅かれるもの。諷詠から造形へ、そして前衛へと、その密度を高めてきたにも関わらず、俳句そのものが持つところの本当の姿を、俳人は俳句の文体そのものに語らせようとはしなかった。俳人の誰もが一様に主張を一句の中に盛り込もうとしてきた。一句の中に主張を閉じ込めようとしてきた。それゆえ言葉だけが浮きあがっしまう言葉先行の俳句になってしまった。日常的現実だけが言葉になって飛び回る。俳句自身から生まれてくる語りではなくなった。それそのものが詩的現実の発想とはかけ離れたものになり日常的現実言葉だけが残った。私性の文体とは句自身から語りかけてくる、飛びついてくる、私人的詩情ではなかろうかとも思う。それには作り手が純粋になりきっていなければならない。心が純粋になっていなかれば日常の現実が見えてはこない。日常の変化が目に入ってはこない。

 そのずっーと昔ではあるが…、或る俳人が言った言葉がある。

    「重く美し言葉が欲しい」

この言葉が重く感じられる昨今である。