その句に純粋性がなければ実感ではない

           その一句に共感出来ない時がある

                児 島 庸 晃

 ずーっと考えていて未だに納得の出来ない事がある。感覚は鋭く新しい感覚なのに、その一句に共感出来ない時がある。どう考えてみても心が動かないのだ。そんなある日のことである。もっと単純な形に詩形を置き換えようと思ったときだった。主義主張を考えないで思ったままの心を述べようと気軽に気を抜くと自分自身が愉快に落ち着いた。そして思いついたのが次の句であった。

   梅雨風の私語にぎやかに喋り行く  庸晃

この私の句は素直な一句である。素直と言ううよりも純粋に私自身がなりきれていた心の句かもしれない。私性の強い句かもしれない。純粋な状態の心になりきれていたからこそ実感出来たのだろう。または純粋に心を保持していたから実感したのであろう。

俳句の一句には感覚が、その多くの部分を含むが、心での実感がなければならない。しかもその心には作者の純粋性を含むものでなければ読者の共感を得られないのでは、と思う日の私がいた。

   誰とでも話したかった この世を去る  伊丹三樹彦

この句は99歳で亡くなった時の辞世の句である。一見すると説明句のように思える。でも、この句は感覚の句でもある。何故?と思う。ここには純粋な実感があるからである。この単純にして無垢の心は作者にとっては、この時、切羽詰まったぎりぎりの純粋さなのであろう。死を意識したその時の作者の感覚なのである。作者の最も無垢な心、純粋性の発揮された瞬間の心、この世へ残す最後の純粋心だったのだろう。これも感覚なのである。その句に純粋性がなければ実感ではない、それ故に読者は共感もする。

この辞世の句の純粋な実感を思い出すたびに、感覚とは如何にあるべきかを考えてみた。いま私はどよめきのように燃え上がり、燃え尽きたときの俳句のさみしさを考えてみた。          

真に伊丹三樹彦の考えるところの現代俳句でなければ道は尽きてしまう。本当に無邪気な語りとしての俳句は既に幼年期に芽生えているはずであったのだ。大人たちはいつのまにか、子供たちの純粋さをつみとってしまっているのだ。真心を暖かく育ててやらなければ道はつきてしまう。三樹彦は、かって俳誌「青玄」誌上に「星の抄」という、小・中学生の俳句欄を設け、その指導に力を傾けてこられたことがある。そのなみなみならぬ努力をあったというだけにしてはならない。この欄の大切さをせつに説いた。そして小・中学校への門戸の開放を結社として純粋に押し進めたのであった。

 俳句版・山彦学校の創始者は谷内(やち)茂さんである。全国的に名が知れたのはNHKテレビへの出演であった。昭和四十三年五月十五日の水曜番組「あすは君たちのもの」で俳句活動を紹介したことに始まっている。このときの少年少女は六名であった。奥村美能留、森 佳子、中尾里子、正前幸子、山口京子、井藤幸代。この六名は小学生であった。このときのゲストは楠本憲吉さんで東京在住の俳人でとのこと。とりわけ懸札校での俳句指導に谷内さんは熱心であった。日記の終わりに俳句を付け加えて書かせるという徹底ぶりであった。あれから50年余が過ぎてしまったが、もう60歳余になっているかと思う当時の少年少女は、今どのような生活をしておられるのか。そのころのテレビ出演の様子を谷内さんは俳誌「青玄」206号で「テレビ出演始末記」と題して次のように書いておられる。 

 五月四日朝八時、六名の山の子が氷見駅に勢揃いした。テレビ出演のための晴

 れの旅立ちである。誰も見送り人はないが全員胸を張り、顔を輝かせていた。

 付き添いの僕は、ちよっと元気がなかった。前日の「かえで」四月集印刷疲れ

 のためである。

この「かえで」というのは少年少女たちの俳句雑誌である。日頃からもくもくと、こつこつと俳句を作りつづけている少年少女たちを必死に見つめる谷内さんの姿がたくましくもかなしく も思える。いつだったか「青玄」全国大会であったき谷内さんは、「自分のことは後ですよ」としきりに言われていたのが、いまでも目に浮かぶ。

 この頃三樹彦はふたつの大きなテーゼを打ちだしている。

      青玄前記/44

  俳句は

  子供にも作れて

  易しい

  大人にも作れて

  難しい

 

  青玄前記/53

  新しい俳句は

  新しい読者を

  作る

「明日の俳句」を考えている三樹彦の切実な主張である。言葉だけでない心の中に湧き上がった切なる願いは作品にも現われ、三樹彦自身への内面を深くし始めていた。  

   まして中年 青梅噛んでの眉間の皺  伊丹三樹彦 

   万緑に 剃り傷新た 男の旅     伊丹三樹彦   

   下校の子へ 笑って 目尻から老ける 伊丹三樹彦

「星の抄」での少年少女作品を読むにつれ、子供たちには子供の世界の、大人たちには大人の世界の、相反する俳句思想のなかで三樹彦俳句の内面へのさぐりが強められていくのは誰の眼にもわかった。

 物事に向ってゆく純粋さを深めてゆくことは、子供たちの可能性を見つけ出すことでもあった。未熟ではあるが何かが予見できるものを探し出すことに必死であった。必死なだけに真剣そのものだった。このことは主幹の純粋性を物語るものでもあった。「星の抄」の選句は主幹自身にとっては、純粋さとの対決であったのかもしれない。選句された句を一つ一つを見ても分かる。

   なかなおりした ボールを高くはずませる   

              小学六年 中山幸子

   父をさがす 大きな目で 山を見る

              小学六年 小林 正

   問題とけない 遊ぶ声ばかり聞こえてくる

              小学五年 井藤真己子

   先生休んだ チョークがゆかにつぶれてる

              小学五年 奥原 晴美

   やぎの死体すてに 毛が風にふるえてる

              中学一年 藤川 多恵子

   問題とけない けしゴム持つ手ふるえてくる

              小学六年 山口 保美

新聞に登場する「小さい目」ではないが、子供たちの観察は大人の眼より異常にきびしかったのだ。純粋になってものを見ることの出来る子供たちに大人はどうしたらよいのか。私も当時、自分自身をかなり責めたことがあった。小学生にして心の内に育った社会的な目は大人の創造をはるかに超えている。私はこのころこれら三樹彦選に注目し、子供たちのもっている詩才の開花を楽しんでいた。形式だとか、表記だとか、そんなものは子供たちには関係のないことであった、感動のままを表現する。見たまま、思ったままが言葉になる。言葉になることの面白さがくりかえされ、また感動なり共感をともなって俳句作品になってゆく。三樹彦は出句されたものを選するだけで、ことさら少年たちの句にあまり手を入れたりはせず、句の純粋性を保たれていた。

 実はこの出演より先に、「青玄」では少年少女十人集の特集を組んでいる。昭和四十一年七月、189号である。個々に登場した作者たちは女子八名、男子二名の十人で氷見の小学生たちであった。この子供たちを直指導した谷内さんは、子供たちの俳句を見て自分に言い聞かせたという。

 今まで、その良さを認めながらも「子供の俳句」と軽く考えていた私は、これこそ本物であることに気づいたのである。子供たちの俳句を伸ばすためには勿論のこと、先ず自分のために脱皮をはからなければならないと痛感したのである。

まことに実感以上の自問であろう。季にこだわらない俳句と、口語表現、分ち書き、これらの生活にそった言葉と表現によって少年少女たちは目を開いたと言っても過言でない。三樹彦選はこの少年少女たちにとって受け入れやすい現代の俳句であったのだ。私は子供たちの句を選する三樹彦の態度が、とても好きであった。子供という意識ではなく、大人の俳人に接すると同じ気持でことにあたっておられたのが好きであった。このことが子供たちの俳句を進展させる結果にもなったのだが、とりわけ特集に登場した十人は、抜きん出ていたように思う。名前をあげると、山田由美子(中学一年)、山口妙子(中学一年)菅沢美恵子(中学一年)、中山幸子(小学六年)、西向純子(中学一年)、林岸由紀子(小学六年)、小林 正(小学六年)、中川一子(中学一年)、新谷文子(小学六年)、外山真治(中学一年)。各々に個性らしきものの開花が見られる。純粋にものごとを見ているだけでなく、すでに自分のものにしている。

 中山幸子作品

  機関銃を見る 人のかげから顔を出す

  父の大きなあぐらながめる 火をつけながら

このことは三樹彦自身も、その個性のひき出しに力を傾け純粋性を抽出してゆくことにあったからであった。このころ俳句雑誌ではどこも十代作品、それも小・中学生の俳句の特集はやらなかったし、またどこの結社もやれるだけの人数を抱えてはいなかった。

 このように注目されつつあった「星の抄」の存在も、当時の「青玄」にとっては順風満帆というわけにはいかなかった。外部からも、内部からも叱言がなされ、三樹彦自身も苦しんだ時期があった。外部からはエイカッコウしに思われ、内部では誌面経費のムダ使いよばわりされ、三樹彦にとっては実にいやな思いの日々であったと思う。こういうことは書いてはいけないのかもしれないが、発行所のそばいた私などは三樹彦に届かない意見を随分と聞かされた。私としては別に気にもしていなかったが、話の途中で突然立ち上がって大声をだしたときもある。阪急塚口駅の山側の改札を出てまっすぐゆくと銀行がある。当時その銀行の前にラーメン屋台があり、そこへ青玄人がよくつめかけた。そのラーメンをたべながらの激論であった。某君としよう。意味のない誌面などもったいないという。私は即座に腹が立った。つっかけていた下駄で、相手の足を蹴っとばして立ち去ったことがある。家に帰ってきてからもなかなか気持が静まらなかった。何度か某君のところへ行って三樹彦主張の意図を説明しようかと思ったが、いまだにその思いは果たせていない。しかし俳句指導者としての一粒なり、二粒なりの努力と苦心の蓄積なしにして一俳人の誕生があろうか。私はいまでも思う。そのときの伊丹三樹彦の積極的な態度と、きっぱりとした言葉から「星の抄」の存在は大切であったと思う。

 如何に素直な実感が読者に共感を与えるかを書いた。それも純粋な心でなければ感覚にもならないことを述べた。真の心は純粋な感覚を生むことも立証した。伊丹三樹彦の辞世の句は死の間際まで崩れてはいなかったのだ。そして感覚には純粋な実感がなければ読者は受け入れてくれないことも書いた。その発端が小学生・中学生に目覚めることを一早く見つけだし、そのために全身全霊を尽くしたのであった。