アナログ俳人のリアリズム考

                                 …合 同 句 集 『 白 浪 』 の 啓 泰 さ ん …

                        児 島 庸 晃

 青木啓泰さん…この人の作品に触れるたびに何時も思うことがある。その人にはその人にしか作れない俳句があるのだということを…。

 日々の生活や日常の出来事に感動するってどんなことなのか、改めて思うことがある。毎日の生活の中にとっぷりと浸かり、また触れてどれだけの感動を覚えることがあるのだろうか。考えてみれば、ほとんど感動を知らない日々を過ごしている私になっていた。このあたりまえのような生活を不思議ともしないで生きていたのだ。一冊の句集を手に取って読むまでは…そうなんです。だが、いま私は心の中にゆっくりと湧き出る泉のような現実が感動に変化するのを知りました。この度の『白浪』の啓泰さんの一連の句のなかにおける日常へ向ける俳人の姿勢の大切さを知りました。

     百日紅地上からから町はがらがら

俳句は現実から逃避してはならない。敬泰さんの瞳の奥に灯した夏の光景は作り物ではない実景である。日常の実感である。はっきりと目に見える抒情なのである。正にそれそのものがアナログである。決してデジタルではない。アナログ時計のように針そのものの動きがわかるように捉え、針のないデジタル時計の数字のみの結果を問うような姿勢を啓泰さんはしなかった。「百日紅」から「地上」へ「町へ」と視線の目をアナログ時計の針のように移し心を高めている。現実提示→心の終止とはしない。現実提示→抒情の提示→心情の変化→心中の終止、とアナログ時計の針を目玉に視線にして表現しているのではないかとも思う。だから言語のみを見せつけるようなことはしなかった。この真面目で純粋な正直さは最もアナログ人には相応しい。

      水打って適当にがんばっている

この句のこの人間の不細工な仕草や姿は実に悲しいまでに啓泰さんである。決して壊れてはいないが、いつ壊れるかもしれない、頑張りはアナログの姿勢でこそ貴重。ひとつひとつの言葉を大切に思考してこその俳人啓泰さんがいる。この表現はアナログ思考でなければ出来ない所以である。

      よい位置にとるも一人の日向ぼこ

この場所こそ、この位置こそ、この社会の一番住み心地のよい場所なのかも。ただ単に一般人を示してのものではない。啓泰さんは言う。「一人の」と。アナログ人が求める自分一人だけの過ごしやすい場所なのである。俳句に何を込めて何を表現するかではなくて何を求めるべきなのかを明確に示し尽くしての「一人の」なのだと思う。この姿勢は現代俳句に活力と言うエネルギーを与えることなのかもしれない。いまの俳句が最も失っている部分でもあるのではないか。昭和三十年代の後半よりの社会性俳句も、前衛俳句も、俳句に活力を与えること、いまだに見たこともないエネルギーを産むことへ向かっての、挑戦をしてゆこうという、精神的な運動であった。

      精神をこころと読んで初詣

この句、説明文のようにも思えるが、そうではないのが、この句のポイント。おそらく何回も何遍も脳裏で繰り返しては表現と思考を定着させようとしたであろうと思う。それが表現として納得出来たのは、私の考えるところでは、たった一語の接続詞にゆきついたときであったと思う。その言語は「を」であったのだ。ここにもアナログ思考が込められているように思える。「精神」→「こころ」、とアナログの眼を時計の針のように移動させて情緒を呼び込む。心の動きを克明に表示して早急な結果だけを追っかけようとはしなかった。この「を」は最も重要な表現なのであった。啓泰さんは日常の現実にしっかりと姿勢を向けて立っている。

      燕来る八分音符の服を着て

啓泰さんは派手な言葉は使わないが、気の利いた言語で表現する。「おれの俳句は泥ニズム」と標榜する啓泰さんは十代の頃からの俳句友達であったが、前衛俳句全盛の頃、表には登場しなかった。俳誌「暖流」にあっては暖流賞まで受賞しながらも黙々と「俺流俳句」を書いてきた。その頃の前衛俳句の浮ついた言葉先行の傾向を嫌ったからであった。言語そものの情緒のなさを憂いたからであったのだろう。アナログ人の情緒である。「燕」の表情から「八分音符」へと展開させる気の利いたリズムは心を弾ませる。そしていまの俳句には何かが欠けていると、日常の生活姿勢へ向かって真剣に向きなおそうとするかにも私には見える。俳句にはエネルギーの展開が強く込められねばならないと思うのは私だけではないだろう。俳句には緊張感や臨場感がいるのだ。それにはアナログ思考がいるのではないかとも…。啓泰さん頑張って…。