私は俳人福島靖子さんから心を……貰っています

            言葉選び…言葉作り…言葉並べ…

                児 島 庸 晃

 日頃から多くの句を読み、文章を書いているのですが、心に留める俳句が少なくなってきたように思うのは、私も晩年期のこと故なのでしょうか。感覚の鈍さが、日々私の心を苦しめます。そのような時、句の本心を伝えようと努力されている福島靖子さんの俳句へ向かう真心の純粋さには、読み手の心を引き付ける何かがあると、ずーと依然から私は注目していました。いまやっとわかりました。それは靖子さんの句が一人称の俳句だからなのではないか。つまり私性の句体なのではないかと。

  俳句は言葉選び…発想

  俳句は言葉作り…構成

  俳句は言葉並べ…アレンジ

上記の三項目が俳句の基本的思考ではあるのだが、これらを進める時に靖子さんの句は私性の句体であるんだろうと思う私の思考がありました。言葉選びはイメージより始まり、意味から求めるもではないことと知った私の思考に、靖子さんの句のイメージが、いまもあります。俳句は観念思考ではなく、句の意味を説明する言葉にはなってはいないのが靖子さんの句なのですよね。物を目視して見えてはいない部分まで見えているように表現することの大切さを含んでいるのが、私性の句体だからでしょう。それは言葉選びをする時に意味で言葉を思考していたのではないか、と言う私自身の反省を、靖子さんの句から貰っていたようにも思いました。

 小説に一人称表現、二人称表現、三人称表現、とあるように、俳句表現にも、この表現方法があるのだと、わかったのは、最近のことで、俳句は一人称表現なのですよね。物を目視するということは、私の心を感覚で表現することなので、当然一人称表現、なのです。常に、「私」であり、「ぼく」。「あなた」「君」でもなく。「あなたたち」でも」「君たち」でもない。このことの、一人称表現の本心を靖子さんの句から、私は貰ってきました。

 私が心奪われたのが次の句でした。

   耕せば土ふふふふと笑いけり   福島靖子

この句は確か句集『青胡桃』の中に出ていたものですよね。これはまさしく一人称表現です。私性の句体。私の心を奪われた句です。この時より、いまもフアンです。それは俳句の原点を示しているからです。このことは俳句の言葉作りにも表れます。言葉作りを観念語でとらえると、これは意味言葉になり、三人称の感覚になります。ここには詩がありません。抒情もありません。だから言葉作りをする時にも、一人称の思考がいるのです。この句から俳句を作る力を私は貰いました。