素直な作者自身の情感は大切……何故

              素直な俳句言葉で表現しよう
                 児 島 庸 晃       
 俳句を作るのに実感が、どれほど大切であるのかはそれぞれの俳人の共通の認識であることは承知の事実である。しかしこの実感がなされるのにテクニックは必要としないことはあまり知られてはいない。何故ならば作者自身が受け取った感覚は素直な作者自身の情感だからである。へんな技巧を労すると実感そのものが壊れてしまい出来上がった句そのものに情感が残らないからである。そこには素直な俳句言葉がなくなっているのである。次の句を見てもらいたい。
   父と母正座していた敗戦日   広瀬孝子
俳誌「歯車」342号より。この句のどこを見ても技巧らしき工夫はない。だが作者の受け取った実感は、読者に充分に伝達されている。それも目に見えるようにその時の表情まで実感出来ている。その心を象徴する俳句言葉が実感の強さまで伴ってあり、それゆえの作者の心情まで理解出来る。その言葉とは中七にある「正座していた」である。良い俳句には技巧などを考慮する隙間などはないのである。…と言って何もしないのではなく適格な言葉選びはいる。情感を損なわない純粋な素直な心の象徴はいる。それが「父と母」なのである。俳句は作者の思考を素直に暖かく心に残せるように思える言葉を選ぶことでもある。その真髄はプラス思考であり常に心花への希久なのであろうか。私は今も思うのだが情感としての実感は最も大切であるのだ。技巧などによる句への強調はいらない。そして良い俳句のための試練には実感を壊しかねないテクニックはいらない。
 私は長年句作りをしながらもかなりのテクニックを駆使してきた。だが技巧に頼り技巧の効果を考えてきたが、今や何の意味もない形骸化した句であったのかもしれない。感性が衰え鈍くなると、どうしてもどうにかしてまで技巧に頼り良い句を作ろうとしてきた。そんなにしていてもどうしても満足の出来る俳句作品が得られなかったのである。もう一度、しっかりと俳句の実感を見直したい。