俳句は一人称表現だが……目視物は三人称ばかり

           本物感は何時も一人称の発想視点

                児 島 庸 晃

 世の中に現存するものは一人称のものばかりではないのである。一人称の表現スタイルが俳句の本物感を深めるのには欠かせないのではあるのだが、目視の対象は三人称のものばかりである。我々の生活日常は複数の形をなしての存在。…だが、表現の基本は私の目を通しての一人称が理想。作者の目視の中では一人称にして捉えなければ本物感は出せないのである。

   星たちのぽーと沸点春夕べ   児島庸晃

俳誌「歯車」375号より。この句は私の作品だが、「星たち」と視点の先にあるのは無数の星。全ては三人称である。出来上がった句は一人称の句である。何処が一人称なのかだが。よく見ていただきたい。「ぽーと沸点」の俳句言葉は私の目視の選択では一人称の扱いとして表現されているのである。目視した対象物は「星たち」なのだが、その焦点は私の感動を受けた部分に絞られての「ぽーと沸点」となる。私の目の中では、私の心として一人称になって感動を残しているのだ。このように感動を受けた部分を私事として、一人称の強い感動言語として残すことにより本物感を強く出せるのである。

 いまの俳壇はあまりにも本物感のない句が多いのである。そして俳句ではなくコピー感覚になっているのには驚く。日常の出来事をキャッチコピーにしてしまっている。広告物の見出しに等しいキャッチコピーである。人目の引きやすい出来事に言葉が並べられて、ここには詩の感覚は感じられないようだ。俳句における本物感は、或いは真実はキャッチコピーでは出せないのだ。これには飲料メーカーなどの募集する俳句が、その広告を主体とするため、キャッチコピー的なもの故のもので俳句とはほど遠い内容が採用されるので勘違いされたりしているのかもしれない。…俳句は本物感をどのように出して表現されるかが問われている。 俳句は私を表現する文芸である。俳壇は俳句そのものが「私を表現する文芸」であると言うことを熟知していないのかもしれない。