この頃この「造形俳句」論を疑問に思っていた俳人がいた。俳誌「青玄」の主幹、伊丹三樹彦である。その主旨は批判的リアリズム論であった。いま話題になっているメタバースである。その当時はメタバース(三次元の仮想空間)とは呼称はしていなかった。目視の中では見えてはいない不可視状態から、私の仮想空間を描き見えていないものまで見えるように表現すること。この難しい表現に挑んだのである。
古仏から噴き出す千手 遠くでテロ 伊丹三樹彦
時はましく社会性俳句の全盛期。この句、俳句界が騒然としたことが私の記憶の中には当時のこととして思い出される。京都での句。千手観音を見てのもの。何よりもこの句には「私」の存在がしっかりとある。その俳句言葉とは「噴き出す千手」である。この言葉は目視では見えてはないもの。作者独自の「私」にしか見えてこないもの。それも何処にでも何時でも見えているものではない。この時、この場所でしか、それが作者のこの瞬間にしか見えてはいないものである。これを私性の文体(句体)と言う。俳句には心の驚きがあって読者をその句に引き込むもの。そこには心の温かさが生じるもの。どなたにもメタバース(三次元の仮想空間)はある。だがここには「私」の存在がなければ何も見えてはこない。私性がいるのである。伊丹三樹彦の批判的リアリズム論は目視では見えていないものまでも見えているように表現することであった。
当時の社会性俳句が事半ばで終了してしまったのは、観念言葉の積み重ねであったように思う。それは目視の際のイメージがぷつぷつと途切れ千切れてしまったことであろう。この思考の基本に沿ってゆくと、一つの理論らしき手法があることが分かってきた。見えてはいないものまで見えているように表現するとはどん手法があるのかを考えてみるとそこにはアニメーションのコマ重ねがあった。
コマ重ねとは一つのイメージの形や感情を一枚のセル書きされた画像を動かし重ねてゆくこで心の響きを喚起するもの。目視した最初の画像は次の画像を喚起する大切な役目を持っていてこの時の変化ある屈折感はその感動の割合を何倍にも持続させて読み手の心に残す。読み手の心につかまれた感動はさらに想像もつかない強さで広がってゆく。この感動の素晴らしさは既に伊丹三樹彦作品から私は何回も味わった。
一の夢 二の夢 三の夢にも 沙羅 伊丹三樹彦
使われている言葉は「夢」と「沙羅」のふたつだけである。あとは「一」「二」「三」という数詞だけである。素直に感動し素直に表現するだけである。ここには「私」の存在がくっきりとある。この表現方法がコマ重ねなのである。この句には社会性俳句に見られたイメージがぷつぷつときれてしまうことはなかった。それは私性としての思考が一つの映像になりアニメーションの一コマ一コマとなって重ね合わさったイメージが目に見えるように展開発展してゆくことが出来ているからである。それらは全てが私性の文体(句体)だからこそであった。心にあたたかい驚きをもたらす俳句。そこには「私」のぞ存在がくっきりとある。この私性の文体(句体)はメタバース(三次元の仮想空間)を想定するには最も相応しい思考なのかもしれないと私は思う。