日日暮らす社会はデジタルに順応……しかし文芸はアナログ思考でありたい

           人間の心そのものはアナログ思考であらねば……                                                 
                 児 島 庸 晃
 私は時計を見ていてふと思うことがある。世の出来事が走馬灯のように移り変わってゆくとき人間の感情はとどまることもなく、刻一刻の出来事へと進んでしまう。これは忙しいということでもなく、世の移り変わりが速いということでもないのだ。人間の心中にある記憶と言うものの存在がすこしの価値感もないということにほかならない。これは不安への警鐘なのかもしれないが、いまだに二つの時計の存在を思ってしまう。一方が針のある時計であり、もう一方が針のない時計である。前者がアナログであり、後者がデジタルである。これはわれわれの生活のなかにあって常に物事を変化させてゆくものの二つの現象がアナログとデジタルだからなのだ。この二つの関係を俳句へ取り入れて考えるとき、その現象や存在価値感の面から考えて或ることを考えてしまう。
 だが俳句の趣旨は全く違っていた。それはアナログとデジタルとその発想方法が違うのである。アナログ→時計で考えればわかりやすいのだが、針が動くことによって、或る1秒から次の1秒へ移ってゆくときの針の動きがよく見える。したがって連続した現象が目に見える。デジタル→数字で時間が表示される点からすれば結果だけがはっきりと現れる。途中の経過時間の動き具合はわからない。不連続である。ここにはわれわれが生活するにもっとも大切な数多くの意味を含んでいるように思われる。俳句人にとってはお更な事である。いまの現実社会はよりデジタルへの傾向にある。専らリスキリングによろ経営方法への転換がなされようとしている今日、この問題はやがて多くの文芸人の進む方向に大きな課題となってくるような気もする。
 そしてそれを思わす俳句も登場している。次の句である。
 
   木馬に乗って デジタル庁の門叩く  伊丹啓子
 
句集「あきる野」より抽出。作者は伊丹三樹彦の長女である。作者の第三句集。この句は現実であって、また夢の中でのことかもしれない。何故にこの句を作ったのだろうと、私なりに心を遊ばせた句でもある。だが作者がこの句を作らねばならない理由があったのだろうと私には思えた。それは「木馬」と「デジタル庁」の言葉の矛盾を述べたかったのだろうと私は思った。「デジタル庁」は現実にあり、社会人と共生するもの。「木馬に乗って」は非現実のもの。でも作者の目視のなかでは共生生活者なのである。この二物の不釣り合いから笑いが発生する。そこには作者独自の思考が生まれる。このように現代人にもっも大切な愉快な笑いが生まれる。これらはデジタル社会のなかでの愉快な心をもって暮らすいま社会のなかかでのデジタル俳句なのである。ここには時計の針の動きが目にも見えるように、刻まれていたのだ。これを心の中で動く針が目にも見えるように表現されていた。結果だけが数字で表示される時計ではなかったのだ。心の中では克明に動きは見えていた。