人間的思考はアナログ思考にこそ

        俳人……桂信子の思考とは(2006年7月28日記述)

                 児 島 庸 晃

 職場での使用している監視モニターは全てにおいてデジタル化されてゆこうとしている。一部は録画にビデオを残すが時代の流れと共にデジタル処理へと変わることになるだろう。鮮明な画面は良いのだが、ハイテクニックの操作や画面処理はなかなか大変である。そこには基本的な考えとしてパソコンによる処理があり録画再生印刷はメモリーカードによるもの。時間検索や場所映像検索や設定は機器ごとに違う。防災センターと言う比較的コンパクト職場においてもだんだんデジタル化されてゆこうとしているのだ。…こんな毎日のなかで目は疲れ脳中は休むこともなくへとへと。自分自身を取り戻す時間は文芸に集中しているときなのである。そして疎外されてゆく人間の情感を受け入れるその時は益々アナログな場所と時間ではないかと思うようになった。

 改めてそのことを考えているとき桂信子主幹の在りし日の、俳誌「草苑」64号を思い出していた。確かにその良さは日常の中の何処にでもあるもの。そしてより人間に近いもの。否、もう人間そのものなのだ。

   墓山のむこうに昏れる椿山    桂信子

   みちびかれ水は菫の野へつづく  桂信子

そしてこの自然は情感はアナログなる詩情である。実に静かでおとなしい。しかし心に残り離れない。

 いま宇多喜代子さんは信子主幹の思考を正しく継承発展させることに多忙のようであるが、その原典を俳誌「草苑」64号一樹集のなかで見ることが出来る。

   置き水の光りが渡る梅の昼    宇多喜代子

この宇多喜代子さんの句に対して桂信子発言は推薦作品として書かれている。

「完成された句である。この句は、西宮句会で最高点を得た句だが、私は、このような地味な句が高点を得たことをその時うれしく思った。前号で、草苑風の俳句という事について書いたが、この句はまさに、草苑風の俳句の典型的なものであろう。静謐のなかに、りんとした作者の心意気をよみとることが出来る。」

ここには発想そのものがアナログ。これは信子思考の継承そのものであろう