「死」へ向かう「生」の美学…俳人……桂 信子

                                        「滅び逝く美しさかもね」という俳人がいた 

                  児 島 庸 晃

 「滅び逝く美しさかもね」という俳人がいた これは桂信子の句集「新緑」を読んでの感想を私に語ったときのことである。私も、そう思えるものがいくつもあったと思い出していた。

   さしかかるひとつの橋の秋の暮   …桂 信子

昭和45年作。句集「月光抄」「女身」「晩春」、そして「新緑」へと渡りゆくなかで益々深みを増すのだが、この川にかかっている橋は人生における接点のようなもの。こちらの岸からあちらの岸へ渡す橋であり、そこにあるのは来し方であり行方である。その橋を秋の暮色が包む。信子は寡黙にその橋を見よ、と指し示す。つるべ落としの秋の陽は今にも暮れようとしている。橋にさしかかるのは信子自身であり、これから先の残された人生の滅びてゆくはかない美しさをここに示そうとしているのだ。

     ライターを借りてふりむく枯世界   …桂 信子

同じ年の作になるが、ふっと振り返ったとき信子自身の背景にあった枯れ色の薄墨の世界。ここには滅びからくるエネルギーの美学まで準備されていた。この年の3月俳誌「草苑」が創刊されている。

        寒の畳に死顔おがむ諸手つく   …桂 信子

そして昭和43年。「草苑」創刊の中心をなしたトーメン俳句会の幹事役の一人でもあった丸岡樹三子を亡くしたときの驚愕は死への構えのようなものまでもあり激情を抑えきれない美学にもなっている。           

      母の魂梅に遊んで夜は還る    …桂 信子

同年のもので、母容態悪化のときのもの。意識のない母はいろんなところをさ迷い歩いているのであろう。魂だけが梅を見にゆき楽しみ、やがて遊び疲れて還ってくる。この信子の淋しく優しく暖かい心。梅も母もすべてが幽玄の中に置かれ美しく奏でる。この心の中での自身との葛藤における滅びの思想は美しさなしにはかんがえられない。

…この句集における「死」へ向かう「生」の美学、それは滅びさるものへの美であり重要なテーマとして繰り返されている。