俳句作者自身のラッピングをしなければならない

          難解俳句と呼ばれているものを紐解く

               児 島 庸 晃

 俳句を何十年も作り続けていると、見るもの全てが有り溢れている句に思え、つまらない俳句に思えてくる。心で受け入れようとはしなくなる私。そんな毎日につまらなさを思う私。日々視る自然や物事にも興味が薄れてゆく私自身は青年時代への憧れが募る。なんとなく新鮮な句への望みを思うのだが、時には吃驚するような句との出あいがあると嬉しくもなる。その嬉しさとは俳句をラッピングすることの楽しさであった。

ラッピングには透明感がいる。外側から見ても中が見えるようにすること。中が見えていること。これは俳句の難解性をなくすための手法でもある。難解俳句には二つの種類がある。俳句言葉自身が理解不能なもの。もう一つは意味そのものが理解不能なもの。このうちラッピングは意味そのものをわかりやすくする方法。ラッピングの語源は、くるむ、包む、包装紙など包み込むという意味のほか、終える、完了するなど物事を終了するという意味の単語なのである。

 難解俳句の最も多いのが俳句形式の無視。俳句の方法としてあるのが、五・七・五の形式の成り立ちの意味。この五・七・五にする句体の意味。物事には初めがあって終わりがあるように俳句にも作者ならではの語りの始まりがある。突然に物事の語りは始まらないのだ。俳句形式の最初の「五」に相当する部分は導入部分。次いで「七」の部分は展開部分。最後の「五」になる部分は終結部分。…とそれぞれの役目としての意味を有しているのである。難解俳句という部類に属する句には、これらの一定のルールが無視されているようにも私には思われる。   

   三月の甘納豆のうふふふふ   坪内捻典

この句は昭和の終わり頃、話題になった坪内捻典の代表句のひとつでもある。当時難解句として物議を醸した句でもある。どこが難解なのかと言えば、作者の表現したい意向が素直に伝わらないのだ。そのことのほどを、当時随分時間をかけて検証したのであるが、やはり理解できなかった。この作者とはよく激論した。俳誌「青玄」時代である。以後いまになって解ってきたことがある。…と言うのは、俳句本来の本質を無視しての句ではないかと思える私の今日がある。それは導入部・展開部・終結部の物事を考慮しない思考の結果であろうと思った私。この句における導入部とは「三月の」、展開部とは「甘納豆の」、終結部とは「うふふふふ」である。この句を理解不能にしてしまっているのは、つまり「うふふふふ」の俳句言葉が終結部に置かれているためである。物事の初めが導入部に置かれていないことであったように思う。言い換えれば「三月の」が導入部にあり、この「三月の」は終結部に置かれるべきもの。物事には初めがあり、それを展開して一切の物事は終結するもの。このような句によくあることだが、伝統俳句の形式と現代俳句の形式が一句の中で混在しているのである。伝統形式の「三月の」と導入して、終結部に「うふふふふ」と置く方法は現代俳句の手法である。最初から主張したい「うふふふふ」を導入部に置き物事の始まりをはっきりさせるべきであったように私には思える。難解俳句と呼ばれる所以である。

 次の句は、そのラッピングの上手な使い方により、難解俳句にならないで定着した俳句である。

   囀りや朝のコーヒー落ちる音    広瀬孝子

俳誌「歯車」329号より。俳句作法が基本に添った表現になっていて解り易い表現になっているのである。五・七・五の基本に添った言葉の整理が出来ている句。導入部・展開部・終結部において物事の整理が出来ている句でもある。それはラッピングが俳句言葉に逆らわないように従順になされているからであろう。「囀りや」の導入部が句全体を包み込む言葉になっていて、つまりラッピングされているのである。作者は「囀り」を聞きながらこれから飲むコーヒーの出来てくる瞬間を待っているのである。両耳に届く音を「囀り」と「コーヒー落ちる音」との異なる音を聞き分けているのである。この微妙な雰囲気を楽しんでいるのである。この難しい音の聞き分けは表現がきっちりと出来ていなければ難解俳句になってしまう。物事には初めがあり、ここからいろんな方向へと展開し、そして定着、終結すのだが、この順番の並びを誤ると俳句は読者の心の中で混乱する。混乱しないようにするにはラッピング、つまり上手な包み方をしなければその句はばらばらに分解して壊れ、何を表現したかったのかがわからなくなる。…この時に難解俳句が生まれる。この句は上手なラッピングにより読者の心を掴むことが出来たのである。

 ラッピングの極意とも言える句にであうと、何故俳句を難解なものにしてしまうのだろうか、と考え込んでしまうこともある。俳句は素直でなければならない。理解不可能と言っても、わざわざ難しくしているのではなかろうが、どうして俳句を難解にしてしまうのだろう。いろいろ面白くしようとして工夫していると難解な俳句になってしまうのか。

   ひとりぼっちの泊灯ね 寒いわ お父さん 伊丹三樹彦

「現代俳句」(昭和40年)に発表の作品。見事なラッピングによる会話体の句である。会話体の句は難しくて作りにくいので殆どの俳人は作らない。何故だろう。その殆どが口語発想だからである。口語体の句には、あまりにも日常的過ぎるので言葉そのものに緩みが生じるのである。だが、この句はそのマイナス的部分をラッピングするという方法で、緩みをさけているのである。そして口語体の句には、同時に難解な言葉の言い回しが常に付帯してくるもの。この句には物語があり、ここに登場する父子の温もり、優しさ、が一家族のドラマとしてある。どこがラッピングなのかと言えば、先ず、導入部・展開部・終結部が難解ではないラッピングになっていることである。言葉を包むと言うラッピングの本来の重みは言葉の選択にあるのだ。物事の初めが導入部にある「ひとりぼっちの泊灯ね」と句全体を包み込むラッピングになるように俳句言葉を吟味選択しているのである。だから一家族のドラマは、これ以後の動き展開を雰囲気に変えてしまうのだろう。ラッピングすると言うことは言葉を解りやすくすること、難解にしないことである。

   風花や行方不明の顔になる   高遠朱音

句集『ナイトフライヤー』(平成21年)この句は平明でよく理解できる句であるのだが、作り方を誤ると難解句になる。この句はラッピングすることの効果で難解にならないで解り易い句になった。どこなのかと思いたくなる。先ず作者の目視がしっかりとして、作者のいる場所、即ち作者自身が立ってその位置にいることがわかる。それをわからせるのが言葉をラッピングすることなのだ。この句の「行方不明の顔」は作者自身なのかもしれないラッピング。包み込む俳句言葉をしっかりと分からせる表現がラッピングなのだ。その俳句言葉が「風花」とのコラボレーションで理解できる。…これがラッピングなのである。この「行方不明の顔」のある位置が「風花」の舞い落ちる位置にあることが分からなければ難解俳句になる。物事には初めがありその言葉に対しての受け言葉があって内容が深まる。ラッピングは言葉と言葉を包み混みながら解りやすく心を深めて広げなければならない。

 俳句言葉をラッピングすることは俳句を作る作者自身もラッピングされていなければならないのかもしれない。俳句言葉だけがラッピングされても作者そのものがラッピングされた心になっていなければ俳句はラッピングされないのだ。作者の心そのものが曖昧な難解な思考では句にも現れて、その状態でラッピングされてもその俳句は難解なものになる。

   冬銀河にんげんひとりづつ記号   齊藤朝比古

「俳句研究」2006年2月号より。この句、目視はしっかりと出来ているのだが、目視の何にポイントが置かれているのかが、曖昧な句である。曖昧で目視物の何にポイントがあるのかだが私には理解出来なかった。ここに使用されている俳句言葉「冬銀河」・「にんげんひとりづつ」・「記号」は全てばらばらで言葉が機能していないようにも私には思われる。即ち言葉がラッピングされていないのである。このことが難解俳句になるのである。何を主張したいのかが作者の心の中でラッピングされていないからだろう。これは俳句の基本を理解していないからかもしれない。俳句の構造としての、三構造、上から導入部・展開部・終結部の五・七・五がラッピング出来ていないからである。つまりは伝統俳句と現代俳句が一句の中で混在しているからである。上五の部分「冬銀河」は伝統の発想。そして中七と下五に置かれた「にんげんひとりづつ記号」は現代俳句の発想である。この混乱した思考が作者の心に内在していて、俳句を作す以前の発想がラッピングされていないのである。俳句言葉だけがラッピングされても俳句にはならない所以である。

 難解と思われる句を検証していて見えてきたものとは、作者の思考の範疇にあるものなのだが、その多くが発想の段階にあり、それらの多くはその一句の中に伝統俳句と現代俳句の混在しているのではと、私は思うようになった。俳句一句を理解不能にしているのは伝統俳句と現代俳句の混在があるように思われる。この混在を正すには作者の思考の中に、作者自身をラッピングする必要があるのではないだろうか。