俳句言葉の考察

                                          コマ重ね・コマ割り…について

                   児 島 庸 晃

    文明とは、文化とはいったい何なのか。…そう思って俳句の事を考えていた。俳句も立派な文明や文化のひとつではないかと思えるようになったのは最近である。長い間、俳句は文芸の一部で趣味的な私的なものに過ぎないと思う日々であったのだが…。先日読んだ書物には世界の各地で盛んになりつつある俳句の話が紹介され、しかも世界の文学になろうとしているという。こうなると、もう文化である。既成概念だけでの句作りは出来ない。改めて俳句を根本から見直したいと思うようになった。そこで工夫や苦心ともいえる思考を怠ると俳句作りの俳句になって単一化してきてつまらないものになる。例えば句会の席での最高点句といわれる類のものである。最大公約数的人気を得て最高点句になる工夫のない句などからは何も生まれはしないからだ。考慮すべきは出句者も、選をする側ももっときびしい目と心であたらなければ単一化してしまう。既成概念からの脱出はない。このようなときにこそ俳句に工夫がいる。ほかのジャンルからの思考を俳句に転用出来ないものかと考えてみた。その一つが映像を一コマ一コマ繋ぎ合わせて作り一場面を完成させるアニメーションであった。その一コマは俳句の言葉と同じ映像を作り出させる要素を持っているのだ。俳句つくりはアニメーションと同じ作り方とも思うようになった。アニメーションの一コマは、俳句でいうところの感情移入である。感情屈折の一コマが俳句の一語一語である。俳句の言葉はコマ重ねでもあり、コマ割りでもある。 

    俳句を把握から表現へと発展させるに最も大切なものとして言葉の選択がある。選ばれた言葉は作者の意志によるものなのだが、その一つ一つの言葉は作者の自己主張の意志を伴うコマの一つ一つでもある。この一コマ一コマの操作方法によっては俳句に表情や感情を与えることが出来る。また俳句のスタイルそのものを新鮮なものに変えることも出来る。それがコマ重ねであり、コマ割りなのである。

  • コマ重ねは俳句現代人の基本形式

 最初のコマ(言葉)と次のコマ(言葉)を重ねるとひとつのイメージは形や感情を統一しながら主張を広げることが出来る。

最初のイメージのもつ形は次のイメージの形へとつないでゆく事が出来る。最初のイメージの形には次のイメージを喚起する大切な役目がある。上五音の言葉と中七音の言葉の繋ぎには間(ま)があり、イメージを繋ぐ準備としての空白の部分である。この空白部分の変化ある屈折感は、その情感の感動を何倍にも持続させて読み手の心に残す。読み手の心につかまえられた言葉からのイメージによる映像の感情や感動は更に想像もつかない速さと強さでひろがってゆく。私はこの感動の素晴らしさを既に伊丹三樹彦俳句のなかで何回も味わった。

      一の夢 二のゆめ 三の夢にも 沙羅  伊丹三樹彦

使われていることばは「夢」と「沙羅」の二つだけであり、「夢」の一コマと「沙羅」の一コマのコマ重ねである。このコマの重ね具合によって句の情感の深まりが増す。あとは「一」「二」「三」という数詞。数詞の「一」のコマ「二」のコマと「三」のコマを積み重ねイメージを広げている。ここに示されたコマは「一」、「二」、「三」と時間の流れを重ねてゆくことの変革を心に刻み、その時その時の重みを言葉に変えるためのコマ重ねであった。この本来は何の関わりもない言葉たちをどのようにコマ重ねして、意味や感情を感性に盛り上げてゆくのか。本来は「夢」と「沙羅」の言語には何の繋がりもないもの。その関わりのない言語たちからのコマの重ね方によって句は広がりを示すのだ。なにも難しく考えることもなくわざわざ難しくする言いまわしや表現もない。素直に感じ素直に表現する。これは俳句の基本理念なのである。コマ重ねはテクニックだけでなく、このようにしなければ感動を押さえきれない緊張感がある。自然の形として生まれた基本形式と解したい。

      日本に八月六日の時報鳴る  高橋幸子

俳誌「氷原帯」平成24年11月号より採録。ここでのコマは三つあり、「日本」「八月六日」「時報」のその三つの言語はそれぞれ全く何の関わりもない言葉である。だが、この言葉が俳句としての意味を持つ詩語に変化するのは一コマ一コマの重ね方にある。上5音の導入部の「日本」は句全体のイメージを引き出す大切なコマである。そして中7音へのイメージの引き渡しがなされなければならない。上5音と中7音のスムーズな繋がりがなされなければ俳句は壊れる。私たちは…このコマ重ねをあまりにも安易に思考しすぎていた。「に」と言う接続詞はこの上5音から中7音へイメージを引き渡す補助的な一コマでもあるが、この句の工夫は大きな場面から徐々に小さい細かい場面へと鑑賞者を引張ってゆくコマ重ねであった。私たちは、それぞれの句にどのようなコマ重ねをするかにより句への心を、より強く深めることが出来るのだという事を知らねばならない。一句を工夫苦心することによるバリエーションが、コマ重ねの方法によってはいろいろな緊張感のある句を生むことだと知らねばならないのである。

  • コマ割りは俳句の発展形式

 コマ割りを一つ一つ解説してゆくには時間がかかるので、ここではこのイメージ部分となる二段割れや三段割れのみを書くことにする。俳句の定型としての五・七・五を、その音節通りに区切っても三段切れであり、また中七の部分を三・四、もしくは四・三、あるいは二・五ないし五・二と区切っても、中七音部分は区切られる。それぞれ中七音区切りの上部分音数を、上五音とくっつけて区切り、上五音プラス中七の上の部分の三音とくっつけても上部部分は区切られる。このようにことばの音数をイメージに変換してゆくと、意味や時間や場所などをリズムに変換することが出来る。そしてこの区切り部分の音数が大切になってくるのである。区切られたこの部分音数に残像がこもっていて、その残像部分音数が次に出てくる部分音数へ関連づけられるのだ。アニメーションはわずか指一本動かすにしても、最低十六コマから三十六コマほどの動き場面が必要であって、そのほんのすこし、たとえば一センチほどの動きをするにしても十六枚ほどものセルカード書きされた絵がいるのである。セル書きといわれる部分で一枚一枚こまかい動きを書き、そのときの感情表現はセル書きの枚数によって調節される。怒った指とか激しい指はセル書きの枚数を少なくしてコマを減らし、強く動くように見せている。また愛を知った指の動きなどはセル枚数を増やし、遅くやわらかく表現する。このセル書きされた絵の一枚が俳句の一音数になっているのである。アニメーションの絵の一枚、即ちその絵を一コマとして扱い、それを一コマ一音としてリズムに割りふりしたもの。セル書きの一枚を俳句の一音として俳句のコマ割りに考えたのが私の試案である、といった具合にコマ割りは俳句にとっても大切なことなのである。俳句にとって感情の表現はもっとも大切にしなければならないのに、そのリズム感は思ったほど重視されてはいなかったのだ。なぜならば意味をわからせることが先行して、句のなかにながれているリズム感や句の音色といわれるノリ具合はおろそかにされてきた。

           切株は老年の椅子 遠紅葉   伊丹三樹彦

この句は二段コマ割りの作品である。上部分十二音と下部部分五音のコマ割りである。上部分には、強い主張を詰まった遅いリズムとして修め緊張感を強める工夫がある。ここには読み手の心を心憎いほどにコントロールしてみせる見事な工夫がこめられている。このことは漢字としてではなく一字一字かな書きにしてみると、一層はっきりとわかる。

       き・り・か・ぶ・は・ろ・お・ね・ん・の・い・す

の上部分に対して

  と・お・も・み・じ

の下部分としての比較。「き・り・か・ぶ」という、何かものを詰めてゆくというか、押しつけてゆくといったような感情に対して、下部分は「と・お・も・み・じ」という緩やかに流れるリズムである。この音階は張り詰めたものが抜けてゆくような不思議な音感の感覚で安らぎを得るのである。…工夫された俳句の音感表現は、このような感情のコントロールまでも見事に実証した。

  では自由律の俳句ではどうなっているのか。考察してみなければならないが、次の句をみていただきたい。

            足のうら洗えば白くなる  尾崎放哉

放哉のあまりにも有名なこの句の工夫は何なんだろうと思う。実に単純明快にいってのけた放哉の精神は内面に自分をくぎづけにしてしまう。その戸惑いのようなものが逆に美しさを醸し出してさえいる。内面に秘そみ、内面から外へ出ようとはしないで、じっと外をうかがっている精神の動きはたまらない自分自身の寂しさであろうか。だが、ここに放哉ならでの苦心工夫があったのだ。細かく分析してみるに、この句は「足のうら」という一コマと「洗っている」一コマの動作との言語から、句は成り立っていて複雑さはない。足のうらを洗う人間と白くなって来る人間は同一の人間であり、すこしばかりの時間の経過が考えられる。「足のうら」の発語とは社会・生活を含む環境とも関係のある、人間の足のうらとして言語化されている。このことが次の発語との間において変化をもたらすのは白くなってゆく自分自身の足を見たときのことであった。この第一の発語「足のうら」から、次の発語「洗えば白くなる」の一コマへの言葉の間(ま)はその情感を沈黙させることだった。この沈黙こそが、伝統的な意味からすれば切れ字に比する効用であり、この一コマこそが屈折感を強める言葉なのだ。いまここでよく考えてみるに、放哉が、何故にこうも極短詩型のかたちをとらざるをえなかったのだろうか?それも基本定型の形式的崩壊をしてまで。…5・7・5のリズムにのせずに5・4・5のリズムにのせたこの音階は…。中7音のもつ退屈な落着きを嫌がり緊張感を強めるもののようにも思われる。言語の強いリズム音階には屈折感としてのアクションがあり、作者と現実の情景を行き来しているうちにいつの間にかこのような形になってしまっていたのであろうか。このことは音数どおりに一字一字かな書きにしてみればより一層はっきりとわかる。

  あ・し・の・う・ら

    あ・ら・え・ば

  し・ろ・く・な・る

この5・4・5の音階は、中4音にすることによる屈折した断絶を強く感じることが出来るようにされた、切れ字としての効用がここに仕掛けられているようにも思う。

これこそコマ割りなのである。これと同じ方法は次の句にも見られ、そのリズムの屈折する場所は、コマの置き方によりいろんな工夫がなされて用いられていた。

           爪切ったゆびが十本ある  尾崎放哉 

これは5・5・2のリズムになりうる。中5音において精神を緊張させておいて、下の2音でその存在のみを主張する。この切羽詰まったリズムのもつ諧調には退屈がない。このリズムの作り方は緊張感や臨場感を作り、読者をひっぱってゆくことが出来る。その映像は一コマ一コマの言葉の置き方の問題であり、一コマのコマ割りでもあり、コマのリズムの組み方でもあった。この操作で感情の起伏までも移入できることを知った。

    ここでもうひとり自由律の俳人種田山頭火の作品についてこのコマ割りを考えてみたい。

         濁れる水の流れつつ澄む 種田山頭火

この句のリズムは、俳句形式の基本はもとより、俳句としての常識を逸脱したもの。自由律俳句として考えても全く別次元の思考が工夫された句なのである。             

 このリズムは…七・五・二。もっと細かく区切りると…四・三・五・二なのだが、いずれにしても最終終結部分は二音である。普通に俳句と言われる句のつくりは上部から導入部、展開部、終結部の三部分から構成されているのだが、この句の場合は終結部の二音にポイントが置かれるように工夫されている。リズムに添ってかな書きにしてみると、

  に・ご・れ・る

      み・ず・の

  な・が・れ・つ・つ

        す・む

二行目の途中終結(み・ず・の)を三音で結び、そして四行目の最終終結(す・む)を二音で結ぶ。この三音の結びと、二音の結びの時間を経ての切れとしての間(ま)は読者へ心の深みを与え、より強烈な情感を訴えている。また自己主張でもあったのではないのかとも思われる。リズムによるコマ割りが感情の屈折を移入出来ることと山頭火は知っていたのであろうか。これは私の推測である。

      うしろすがたのしぐれてゆくか  種田山頭火

      まっすぐな道でさみしい     種田山頭火

同じく山頭火の句である。ここにもコマ割りの工夫による感情の移入がなされていて鑑賞者の心を惹きつけている。音階のリズム割りはコマ割りでもある。一句目の「ゆくか」の三音の終結。また二句目の「さみしい」の四音の終結。これらは従来の俳句の終結としては意味をなさないものであった。これによるところの時間や場所や状況をコマ割りして工夫すると思わぬほどの情感の屈折が出来る、そのことを山頭火は心得ていたのかもしれない。いまここで自由律の俳人を採りあげたのは、私なりの理由があったのだが、放哉や山頭火はこの句の形式が感情移入の方法に最もむいていると思っての俳句方法であったのかも…。そのリズムより作り出すコマ割りの句であったのかも。自由律のリズムが最も相応しものと思っていたのかもしれない。俳句の方法論としてこの形式を選んだのには、最も無駄のない、それでいて最も単純な思考の流れがリズムのコマ割りに適していたのであろう。いまの社会が複雑で混沌な現実であるところからこのリズム音感が最もむいていると思う、その心こそが自由律の俳人山頭火や放哉のフアンを多くしているのだろう。自由律を作ることを称賛してるのではないが、このリズムの屈折は必要である。…私はその方法をアニメーションの一コマ一コマからなる感情表現の工夫と考え、俳句に導入することを思い、過去の俳句作品からの引例をひいて考えてみた。

  • 従来の俳句からのみ俳句の方法を学ぶ時代は終った。

 俳句における表現方法は既存俳句だけから求める時代ではないという認識が、文明や文化を高め、国際化日本の世界価値を問う私たちにとって俳句現代人は正しい判断であったと思う。俳句の本格的な変革を、これまでの価値判断で求めても、ある一定の枠からは脱しきれないのだ。アニメーションはいまもっとも俳句に近い存在ではないかとも考えられる。その一コマ一コマのリズム感や香りなどの音色のながれによるノリ具合は、まさに俳句そのものと思われる。いまの俳句だけが自己の俳句表現の唯一の方法ではないということを知った上で俳句の現代化を思うのである。だが、これらの思考は私の試案であり、もっと研究を深めるものであろう。