俳句を理解するには可読スピードがいる

  具象・論理・客観…を求める人と……抽象・イメージ・主観…を求める人がいる

                   児 島 庸 晃

 俳句を鑑賞する時にすぐ理解出来るものと、時間のかかるものがある。これらのほとんどは表現方法にあるのではなかろうかと思うことがある。句会の席で句が多数あるときは可読スピードがいる。可読するのにはスピードがなければならない理由がある。句会には制限時間があり時間内に終了しなければならない。そのため理解に時間がかかる句は、選外になり易い句が多くなる。従って良い俳句と思われる句でも選句の対象にはならない場合がある。話題にもならないことが多いのである。一方、俳句雑誌等に掲載された句は可読するのに時間の制限はいらないが、逆に考え過ぎの不必要な理解も生まれる。いずれにしても可読スピードの問題は作る者ではなく、鑑賞者の理解度の問題であった。選するのに理解されやすく、しかも可読するのに時間がかからず、心に受け入れやすい句とは、どのようなものなのがあるのだろうか。作る側も選句者の心を知らなければ、可読スピードを速める問題は解決しないのだろうか。今の多忙な、そして時間の速い流れの中では、この可読スピードのない句は見向きもされなくなるのではなかろうか。…日々の句会やネット句会の現状を見ていて思うことである。

 

 物を思考するのには二つの方法があり、私たちはこの人間が生きてゆくための知識をいろんな形で取り入れている。その二つとは、科学と芸術である。新しい生き方の知識を日常の生活の中に反映させる知恵が科学と芸術の中にあるからなのだ。ひとつの対象物を思考するのに、具象・論理・客観…を求める人と、抽象・イメージ・主観…を求める人がいる。前者は科学を追求する人たち。後者は芸術に生きがいを求める人たち。ここで俳句は後者に近い人たちである。芸術と言うのは、無形のもの。何一つ決まった形などはないのである。俳句は五・七・五と言う約束事があっても定形ではない。季語に至っても超季の立場をとる俳人が多くなり固定はされていない。形のないものへ形を与え、有形のものにしようとするのが俳句である。そこで可読出来るのか。出来たとしても遅く時間のかかるものは嫌われる。可読スピードが速いか遅いのかが問われるのだ。 

 

 可読性とは意味の理解がすぐに出来ることである。この中には文字・数字・記号も含まれる。既成の、すでに存在しているもので、その情報が理解できるものかどうか。従って俳句は、その情報の引き出しにおいて理解しやすいかどうかと言うものである。語源の可読性は商業デザインの広告の中より生まれた言葉であった。私が現役でデザインの仕事をしていた時、もう四十年も前のことである。その頃の思考の基準は、広告される媒体が分かりやすいものでなければならないというもの。主張が理解されやすいものであった。イメージされて出来上がる図案や絵がわかりやすいメッセージ言葉にになること。一方、俳句は表現されたメッセージ言葉がわかりやすい絵になること。可読のスピードを速める絵になる言葉表現をすることが現代俳句の必然としてある。可読のスピードを速める俳句とは。…それは発想と技法にある。発想とは思考するときに基本のブレがないことだが、そのことをすこしずらせてブレさせたのが次の句である。

   月光やどこ曲がっても妻がいる   川名つぎお 

現代俳句選集『現Ⅲ』(平成23年)より。一見すると日常のありふれた光景である。曲がり角の先にあるものに、期待感を抱くその事への言葉メッセージに、あたりまえを感じさせないのがこの句なのである。新しい発想は常に原点に帰点することなのだが、この句は完全に原点には帰ってはいない。完全な帰点を意味するものではない。この句は無から有を産みだすということがすべてではなかった。現在、眼前にある月光を否定することではなかったのだ。現在の状況をすべて認めた上で、発想の転換を計るという手法である。ここで現在の状況である月光の光景を否定していればこの句は可読出来てはいない。「どこを曲がっても」とほんのすこしずらせてブレさせることにより、句の理解をより速く可読させることが出来たのだ。その主役は妻である。…メッセージ言葉は絵になったのだ。

   蛇を知らぬ天才とゐて風の中   鈴木六林男

句集『荒天』(昭和24年刊)より。この句も発想の原点をすこしずらせてブレさせた句である。先ずは「蛇を知らぬ天才」と言うメッセージ言葉に吃驚する。天才としてのメッセージを伝達しておいて、次に意味を反転させる。ここには発想の原点があるのだが、完全にその存在を否定せず、視点をすこしずらせブレさせている。現在の状況をすべて認めている。目の前には天才が風の中に立っているのだ。ここで可読を速めたのは「風の中」の俳句言葉を下五に置いてイメージをずらせた絵にしたことであった。

 

 俳句の可読スピードを速めることの一つは発想であった。その発想方法は現状の光景を否定しないで、すこしずらせてブレさせ絵にすること。そのことにより人の心理を受け入れやすくすることだった。では、俳句技法はどのようにしているのであろうか、どのようにして速い可読スピードを可能にし句を作っているのだろうか。俳句に使用される言葉に表意文字がある。表意文字とは何なのかなのだが、ウィキペディアによると…ひとつひとつの文字が意味を表している文字体系のこと。意味を形(絵)に置き換えて表した文字の集まり。文字の一つ一つに意味があるため、表意文字では、ある文字を一つ見るだけで伝えたいことが理解できる、と解説されている。従って表意文字である漢字を使わなければ可読性というものは落ちる。俳句には、出来るだけ漢字を使用しなければならない必然があった。そこでその表意文字なのだが、比喩と連携したらどう変化してゆくのだろうかというのが、次の句である。

   八月の大樹の傘に立ち止まる   松元峯子

俳誌「歯車」357号より。ここにある「大樹」だが、表意文字としての主張は大きい樹木。しかしこれに「傘」がくっつくと表意が全く変革する。大きい樹木だけであったものが、傘に見えてくると、人の日常使っている必需品に変わる。遠くに見えていた唯の樹木が、私の身近なものになり大切なものになるのだ。そして八月の真夏の燦々とある、言葉としてはない太陽光までが眼前に見えてくる。…この句は表意文字を変革させる比喩を使用することによって可読を可能にし、しかも理解度を強く速くした俳句なのであった。

 では、記号を使った俳句はその表意がどう読まれたのか。これは私が実験的に作った句なのであるが…。

   →に風は進みぬ花芒    児島庸晃

俳誌「歯車」361号より。記号の表意を言葉に変換しないでそのまま使用。イメージすることに重点を求めたものである。「→に」は音読するとき「矢印に」となる。可読を速めるということでは記号のままで読み込むほうが速いと言うことなのではないかとの思考であった。一方向への風の流れは言葉では充分な表現は難しいとも思われ「→」にした。いまスマホで多く使われている絵文字の一種にも成りうるもの。現代の俳句は表意を考えることによりいくらでも日常の中に溶け込める。より日常を重視することによりこの表意文字の大切さがわかる。

 また、俳句リズムがもたらす可読スピードの速い句として次の句がある。

   よし子万事済んだ安心して凍れ  櫂 未知子

二〇〇四年「俳句研究年鑑」より。従来の俳句リズムではない。この句は五・七・五の流れではないのだ。全体は十八音なのだが、敢えて短・長・短の音階を拒否しているのだろうか。…だが、この句の良さはこのリズムの良さにより可読スピードを速めているのである。音感表現と言うものは人の情感を強める良さを持っていて可読スピードのある句になる。それが速いリズムになっているのがこの句なのである。では、どうなっているのだろうか、考えてみたい。この句を音感のままに分解すると、次のようになる。

   よし子・万事・済んだ・安心して・凍れ

   3音  3音 3音  6音   3音 

この3音の短音の繰り返しがある。人の心への急激な情感の送り込みがある。どんなことがあっても、この句を目に止めたら読まされてしまう。そしてすこしだけ変化をつける六音の部分があり、この六音部分の「安心して」だけが、心に残る。ここに作者の言いたかったことの意味が強くある。この三音の折りたたんでゆくリズムにスピード感があり、理解度を速めているのだ。

   種火すこし分けてもろうて冬花火  諏訪洋子

俳誌「歯車」362号より。この句も単音である…3音主体の流れをもつリズムの句である。音感は微妙に変化して折りたたむ3音繰り返しの重ねのリズムの速さに、可読を速める。では、音感に従って分解してみると、次のようになる。

   種火・すこし・分けて・もろうて冬・花火

   3音 3音  3音  6音    3音

この3音の快い繰り返しのリズムは、リズムとしての音のリフレインである。そしてこの句の6音部分は、更に4音と2音に分かれていて、ここでもイメージを解りやすくする工夫があるのではないかとすら私には思えるものだった。この6音の部分…「もろうて」と「冬」は「もろうて」と読者に心を渡し、「冬」と受け取る快い速いリズムを生む。このように理解しやすい句意をリズムによって作り出しての俳句であった。  

 私は、これまで俳句を理解するのに速いほうではなかった。ゆっくりマイペースであった。そして時間がかかっても納得がゆくまで行動をおこさなかった。だが、現代社会ではあらゆる物事が生まれてはすぐ消えてゆく毎日。その時間の速さを感じる昨今。俳句もまた消耗品になってゆくような気がしてならないのである。俳句本来の姿…とはと考えていた。そして、そこに可読の是非を考えていたのだが…。この目まぐるしい変化の中で俳句が消耗品にならないことを願っている。日々の生活の中に俳句になり得る現実が、とても難しくなってゆく中で、詩情のある状況が見つけ出しにくくなってゆく毎日である。現実に翻弄され、決して安易な俳句の作り手になってはならないのだと思う。定期的に行われる句会においても消耗品になってしまうのではないかと思われる句が選ばれる。最も一般的な月並み俳句だけは避けたいと思う。そういう意味に添っても最高点句が最高の作品であるとは思いたくない。質の良い俳句作品を生むのに一句一句の理解度の問題が生じる。如何に速く理解出来るのかと言う課題を抱える今日である。