新興俳句運動における俳人たち        

     迫りくる戦争というなかにありても如何に感情が大切であったか

                   児 島 庸 晃

 新興俳句運動は迫りくる戦争へ向かっての熱い闘いではなかったかと改めて思う。このように前置きをしておかねばならない。その新興俳句運動のきっかけを作った場所は京都・ミヤコホテルであった。いま、私はこの京都・ミヤコホテルで実際に起こった事件を思い出す。…恋と革命に青春をかけた20歳の男女学生が京都の夜に心中して散った。二人の遺体は小さな祠の低い鳥居にぶらさがり顔を明るい京都の町の灯に向けていた。これは8月3日の大学措置法が強行採決によって参院を通過した日の大阪梅田航空ビル屋上の電光ニュースである。この男女は二、三日前から京都・ミヤコホテルに宿泊しロビーで食事をしていた若い男女だが、いきなり鋭利なメスでお互いの手首を切ると、そのままホテル出口を風のように走り抜けて行ったという。この現象…七十年安保以後にくる戦争への恐怖であった。若者は真剣に考えたのであった。

 戦争の迫りくる時代の若者の心は昭和初期も同じであった。このような混沌とした不安な世相の中にあって日野草城の存在は新鮮に若者の心を捉えた。それは美しく清純な心を宿すモダニズムであり、明るいロマンチシズムであったのだ。昭和45年に全学連闘士が手首を切ったこの京都・ミヤコホテルで日野草城は昭和9年「ミヤコホテル」一連の作品十句を「俳句研究」創刊2号に発表する。そのきっかけを作った新婚初夜を過ごしている。そして室生犀星をうならせ新興俳句運動の推進を図った。押し迫る混沌とした時代の権力と暗さにじっと耐えていた。

 こんな私が戦中の新興俳句運動を語るのは俳句そのものが如何に情感を大切にしなければならないかという証でもある。正にこの新興俳句運動は情感を大胆に語る運動でもあったのだ。昭和9年3月、日野草城の発表した「ミヤコホテル」の連作であった。新婚初夜をテーマとしての十句は従来の俳句とは全く異なっていた。そのロマンチシズムは大胆な色っぽい作品であった。

   をみなとはかかるものかも春の闇

   薔薇匂ふはじめての夜のしらみつつ

   枕邊の春の灯(ともし)は妻が消しぬ

これらの作品は当時の時勢を考えると、相当大胆なエロチシズムである。しかしこの情感は人間の感性をくすぐった。戦争へと突き進む時勢にあって美しくなまめかしい憧れにも思われたのだ。当時の俳壇への刺激は考えられないほど強く、このことが原因となり日野草城は高濱虚子(ホトトギス)から破門という掟を受けている。

 俳句誌「青玄」の160号「愛の俳句考」の中で津根元潮は書いた。「現代俳句の夜明けはその警鐘を鳴らしたのは大胆なロマンチシズムと近代モダニズムを武器にミヤコホテル連作を世に問うた白面の青年日野草城であった」と。また桂信子は草城の回想録の中で「俳句の領域をここまで広げた功績は賞賛されてもよいと思う」と述べていたのを思い出す。草城は無季俳句論を実証して「旗艦」を創刊。もじ通り無季俳句運動の先頭に立った。時に昭和10年1月のことである。

 俳句誌「旗艦」を創刊して当時の若者を刺激した草城は時代の先駆者となり更なる躍進へと突き進むのであるが今は亡き安川貞夫は言う。「この運動がもたらした意義については、明治の子規の俳句革新に比肩すべき意義を持つ」。事実その通り多くの弟子を育てた。そこには富澤赤黄男、喜多青子、片山桃史の精鋭たちがいる。ここであえて注釈を加えておきたいのは、秋櫻子や禅寺洞はどんな動きを示していたのかを 考えてみたい。昭和6年10月秋櫻子は、「馬酔木」で「自然の真と文芸上の真」と題する項目で、高野素十らに代表される写生トリビアリズムを批判、「ホトトギス」を離脱、虚子のもとを去っている。このとき秋櫻子を慕い行動を共にしたのがのちに断絶の抒情作家といわれるようになった高屋窓秋である。少し遅れて9年には禅寺洞は無季宣言をはっきりと打ち出している。そしてこれをまっさきに認めたのが日野草城であった。遂に昭和11年、草城は禅寺洞、杉田久女とともにホトトギス同人を除名されることになる。このころ禅寺洞の「天の川」には篠原鳳作、横山白虹たちがその頭角を現し始めていた。

 金子兜太の論によれば新興俳句運動の作品的成果を問題とする場合、西東三鬼、富澤赤黄男、高屋窓秋の三人に集中して考えられると思う、と言っている(造形俳句6章<4>)。神田秀夫は窓秋と鳳作、三鬼、赤黄男の4人の名を挙げ、俳句を近代詩の水準に引き上げるため、これまでの伝統派の作者が誰もやらなかった仕事をした。その業績は、当時の秋櫻子や誓子や草城より一歩歩をすすめたものである、と評価している。(この文章、津根元潮「高屋窓秋」より抽出)。以上が新興俳句のもっとも盛んになるあらましである。

 ところで俳人と作品の分析をしなければならない。当時問題になった俳人の立場を書いておかねばならない。

  富澤赤黄男

本名…富澤正三。明治35年7月14日生まれ。出生地…愛媛県西宇和郡保内町川之石(坪内稔典の出生地と同じ)、宇和島中学校を出た後、早稲田文科に入る。卒業後、広島工兵隊志願入隊。少佐にて除隊。故郷にて川之石木材会社経営。木材会社失敗。単身上坂。草城選「青嶺俳句」に出句。「旗艦」創刊と同時に参加。昭和37年3月7日午前11時10分武蔵野市吉祥寺186番地の自宅で肺臓癌のため永眠。

 ここで富澤赤黄男の作品について書かねばならないのだが新興俳句運動の実践者にしてはあまりにも純粋すぎていた。彼は昭和16年8月に処女句集『天の狼』を出版。これまでの俳句性を全く拒否。近代詩の象徴的手法を導入。花鳥諷詠的な自然を排し。現実を直視しながら見事な詩性を開花している。それはあまりにも純粋すぎていた。

   火口湖は日のぽつねんとみづすまし

   蝶墜ちて大音響の結氷期

   蜂の巣の蜜のあふれる日のおもたさ

   椿散るあゝなまぬるき昼の火事

   花粉の日 鳥は乳房をもたざりき

   黄昏は枯木がぬいだ白いシャッポ

これらの作品にみられるようにスタイリストでもカラーリストでもあった。その赤黄男自身の言葉に、「特異な包装」というのがある。ここには赤黄男の呼吸が実に生き生きしているのだ。その言葉とは…この短詩系でもって髙い詩たらしめるためには、常になり潜むためには、その表現の方法に特異な包装を必要とする。すなわち高度の象徴が希求されねばならぬ。象徴とはそれ自ら鳴り響くことによって、他のもろもろの魂を鳴り響かすものである。象徴は客観現象の説明や単なる模写ではなくこの模倣模写を厳に拒否するところから出発するのである。

 富澤赤黄男は大変な努力家でもあった。いろんな工夫苦心を繰り返す。たやすく自己の表現技法や自己の言葉を最初から持ったのではない。「ホトトギス」の高濱虚子

選に投句、一句も入選できなかったり、山本梅史主宰「泉」に投句、なんとか名をつらねることができたという時期がある。新しいことを起こすにおよんでの抵抗はあった。「花粉の日 鳥は乳房をもたざりき」でもわかる通り昭和10年代すでに分かち書きの実践者でもあった。

 昭和12年、赤黄男は支那事変で中支へ出征、その戦地よりロマンあふれる句を送ってきた。

   潤子よお父さんは小さい支那のランプを拾ったよ

それは誰も想像もしなかったダイヤローグ使用の作品であったのだ。赤黄男の心は敵兵と面と向かった時でも、常に純粋な詩人としての、人間としての優しい暖かさがあったのかもしれない。

 当時戦火想望の俳句が流行を呼び、平畑静塔の「やっておればけっきょくニヒリズムに陥ってしまうわけですよ」(「俳句」昭和35年8月号)の言葉の通り、物事に沈静していた中で、赤黄男が、しかも戦地で「潤子よ…」の句のような、これだけのロマンを持っていたということは、赤黄男自身の人間的な味を改めて思い知らされるのである。これを人呼んで「氷山の抒情」とか「鋼鉄のロマンチシズム」とか言う。

   落日に支那のランプのホヤを拭く

   やがてランプに戦場のふかい闇がくるぞ

ここで兜太の分類をしてみたい。「自分の外にある現象を拒絶して、自分の中にある事実を発掘することに努める形」。それは内在する一個の詩としての律をもつモダニズムでもあった。おそらく赤黄男の頭には、句の中に自分が入らなかったり、見つめている自分がいなくては満足出来なかったし、完全に自分自身のことばをもつまで推敲追求していったのであろう。ここにはたしかに富澤赤黄男自身の私性がある。現実を一度は拒否し、新しい自分自身の現実を再現するところからの出発であったような気がする。

 

 新興俳句運動の忘れてはならない一人に高屋窓秋がいる。この人の作品を思い出すたびに私はかって読んだ近代詩の一編を思い出さずにはおられない気がする。それほどに主情的な匂いの強いものであった。またこの人の作品を読んでいて考えられるのは処女句集がどれほど俳人にとって大切なものであるかということも知覚する。処女句集『白い夏野』は昭和11年7月20日東京龍星閣より発行されている。津久井理一の「『白い夏野』によって近代俳句における抒情の確立がなされたといって過言ではないだろう」の言葉の通り、この句集は当時の青年の間では相当な人気を呼んでいた。それは「濡れるような抒情で、青春の憂愁を詠い上げている」(津久井理一)からであったと思う。

   頭の中で白い夏野となっている

あまりにも有名すぎる、この作品はリリカルでもあり、またシュールでもある。「そしてそのまま表題として使用した、窓秋の詩人の本質を通ってきた新しい抒情の展開がある」(理一)であったといっていい。

 いま私は戦中の状況を語ろうとしてきた。そしてもう一つの目的である新興俳句運動を書き人間としての根源を検証している。共に原点を探ろうとしている。ここに登場する高屋窓秋は最も人間的であった。人間の一番弱いものを示していたのだ。そのために寡黙俳人であった。作品を作っているかと思えば沈黙してしまうという少しづつの亀裂をもっていた。「馬酔木」離脱の行動してもあまり語ってはいない。「惟うに重大なる決意というものは屢々理由なしに訪れるものだと考える。決意そのものに価値がある。僕の場合もその決意は運命的に訪れた。そして僕はその決意のために行動する」

   ちるさくら海青ければ海へちる

思えば窓秋のこの句、約束としての季語を超え、イメージとしてのかかすことの出来ない季の扱いであった。

   さくら咲き丘はみどりにまるくある

   いま人が死にゆく家も花のかげ

   山鳩のふと鳴くこえを雪の日に

   鳩たちぬ羽音が冴えて耳に鳴り

ここには青春期の揺れ動く、淡い夢なり、熱情が主情的に流れているのを私たちは決して見逃してはならない。

 高屋窓秋…この人の過去を追いながらも、この人にも誰にも話せない苦悩があることを知る。そしてその苦しみはいまだに語られてはいない。窓秋は「馬酔木」離脱後3年の沈黙を保った。そして昭和12年5月句集『河』

を出版した。この句集には四〇句しかなく全部書き下ろしであった。

   葬送の河べり何もない風景

   みなしごが死んだ誰か泣く涙

   私生児よ母がこの世に残せしもの

   母も死に子も死に河がながれていた

これらには、もう「馬酔木」時代のきめの細かさはなかった。現実とがっちり組んで対決している窓秋の姿勢はやはり大切ではなかったかと思う。窓秋は語った。「句集

『河』を書いたのが支那事変前夜である。ぼくの意識の中に流れた川は、上水の流れとは違っていた。もっと現実の苦悩と闘争の満ちたものだったが、しかし時勢の流れは僕をして敗北の人生へ追いやった」。窓秋にとってはこれが精一杯の現実に対する抵抗であり批判であったのかもしれない。現実にも敗れ、俳句と戦う力にも負けた窓秋は昭和13年満州に渡り終戦までの8年間、作句を自ら破棄し沈黙する。『白い夏野』で見せた批判は「一個の完結した風景の中に溶しこんでしまい決して語ることをしなかったのです。比喩をはらんだ風景が生み出されていた」(兜太)の世界はもう『河』にいたっては窓秋自身語らずにはおれないほど現実は厳しく、また暗かった。

 

 新興俳句運動は昭和15年の京大事件に始まった文芸への権力の弾圧が激しくなり、16年の新興俳句事件によって一応終わりを告げることになる。しかし本当は支那事変、太平洋戦争の圧政の中で生きてゆかねばならない俳人たちにとっては素材の新しさへ惹かれてゆくやむなきに至り「季」や「定型」の問題を結実するゆとりもなかったのかもしれない。また後半に至っては感情的に叫んだ言葉の表現に終始し、しっかりとした意識の主体の存在する知的な操作の希薄な俳句になってしまい平坦な社会事象の作品に尽きていたようにも思われる。ここに新興俳句運動の弱みがあった。新興俳句、この運動を通して現実とはいったい何だったんだろう。私は改めてそう問いかけてみたくなる。