俳句を生むためのポップ言葉

                                          新 感 覚 の 俳 句 を 求 め て            

                                                          児 島 庸 晃

    私がポップ言葉……ってなんなのだろうと思うようになったのは随分と昔のことである。そしてそのことが俳句にも使用され、凄く心理の強さをくすぐる言葉なのだと思った時より、もう数十年が経る。ポップ言葉とは、商品販売におけるキャッコピーなのである。人の心を上手に取り込む誘いの言葉である。謂わば人と人とを結ぶための心を継ぐ言葉なのである。

    小学生に俳句について聞くと、いつでもどこでもつくれる、ことと答えが帰ってくると言う。そしてさらに聞くと、こころがおちついてくる、との返事。私は吃驚した。かって氷見市で小学生に俳句の指導をしていた谷内茂(やちしげる)さんの四十年ほど前の言葉を思い出していた。この心の存在そのものが…実はポップ言葉なのである。思っていること、感じていること、全てを内心から吐き出すように放出すること、その後には何も残らないほどに、心を落ち着かせること。この時に飛び出してきた心の言葉そのものがポップ言葉なのである。俳句での感情導入は真実の存在感の有無に関わってくる。作者自身の本当の心情こそポップ言葉なのだろう。俳句以外では音楽分野でのポップミュージック、絵画でのポップアート、いろんな分野での文化を広げている。

   では、ポップ言葉を使った俳句にはどのようなものがあるのだろう。その主体をなすのはオノマトペオノマトペとは擬態語のことなのだが、自然に口から飛び出す感情言葉である。例えばだが吃驚したときや悲しいとき、意識しないままに突然飛び出す言葉である。

          だぶだぶの水が流れてあたたかし   前田 弘

現代俳句選集『現Ⅲ』(平成23年)より。この句のオノマトペとは「だぶだぶ」。この言葉は服を身につけた時に、あまりにもゆったりとしていて身にそぐわない程に大きい様子のことなのだが、流水を人間に比喩させての擬人化。その時の感情を心表現したもの。作者は咄嗟に思って言葉にしたのであろう。だが、ここからがこの表現の素晴らしさ。この句を見事なものにしているのである。自然を作者が心に取れ入れるとき、状況だけを見ての句作りであるのだが、この句は流水そのものに作者がなりきっていることなのである。この状況にぶっつかり吃驚したのかもしれない。謂わば作者の身体全身で事象を受け止めての皮膚感覚感性表現なのだ。オノマトペが擬態語と言われる意味がここにある。

   では、オノマトペ語が心理表現にまで心配りをするとどうなるのかと言うのが次の句である。

         ふかしいもふわふわ母の胸の中   福島靖子

俳誌「歯車」355号より。オノマトペ語は「ふわふわ」。作者の気持ちまで導入して感性を高める言葉にしているのが、この「ふわふわ」なのである。この句を、一見して心惹かれるのはオノマトペ語より発声される語感の響きにあり、この句は「ふわふわ」の言葉より、暖かくして柔らかい作者の人間の本質を見る思いがする。それがふかしいもの本質のふわふわと重なりあってくるように発語されたもの。ここには人の心理をくすぐり癒す作用としての安心感があり、心理表現に最もふさわしいことである意味があったのだ。私たちは、普段このような現実にぶっつかり見ているのだが、ちょっとした心配りで心理まで表現することができるのがオノマトペである。

         さくさくとキャベツを剥いて朝の膳   広瀬孝子

俳誌「歯車」359号より。「さくさく」と言うオノマトペ語は音楽感覚の快さで鑑賞者を誘い込む感覚語である。この言葉のリズム感に心の弾む躍動感があり、緊張感を誘って強い刺激を生む。この句はこの句を読む者へ、これから何かが始まることの予感を引き出す役目としてのオノマトペである。オノマトペは音楽感覚の言語感性を引き出すのには最も適した言語でもあった。作者が体験する感動をリズムに乗せて作動させる言語こそオノマトペ言葉である。

    オノマトペには三つの特徴的表現法がある。それぞれに感性がその主体を示すものであることは、具体的に既に三つの例で示した。日常の生活の中には、普段見ているものの中にも、沢山のオノマトペは現存する。しかし作者がそれとして意識していなければ何も受け取るオノマトペ言葉はない。何故かといえば、日常の現実生活の中には、皮膚感覚感性も心理表現感性も音楽感性も目視で受け取ることはないからである。これらの言語は作者の体内に蓄積されてあるもので、作者を取り巻く周囲の環境の中には見えているものではないからなのである。作者自身が自分自身の身体で物にぶっつかり受け止めなければ出てこない言葉なのである。オノマトペ表現ほど人間の情感をいっぱい含んだ言葉はない。私たちは個人の個性とも思える感性を新しく受け取るためにオノマトペ言葉を使った俳句の出現は必然なのである。

    そのオノマトペ言葉だが難解なオノマトペ語として句のなかに登場することもある。

        たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ 坪内稔典

        三月の甘納豆のうふふふふ      坪内稔典 

話題になった俳句である。「ぽぽ」も「うふふふふ」もオノマトペ言葉。だが、感覚言葉として提示されても理解しにくいのだ。何故なんだろうか。考えてみたい。一言で言ってしまえば目視の果てでの身体でぶっつかり受け取った表現でないからである。「ぽぽ」も「うふふふふ」も実態のない言葉だからである。更に厄介なのは身体感覚としても受け取りにくい言葉だからである。謂わば観念語なのである。作者が、自分なりの思考で生み出した勝手言語である。故に読者は、いろいろと、ああでもない、こうでもないとつつき回して考える。その楽しみを良しとしているのかもしれない。この言葉は、意味として理解するには距離があるし、情感として受け入れるにも好き嫌いを作ってしまう。実に曖昧なオノマトペ言葉である。もっとしっかりと物を目視しての分かる表現が望ましいのではないだろうか。もっともこの句は坪内稔典の若い頃の作品である。稔典と私は俳句結社「青玄」時代を共にしたが、このような曖昧な表現をする俳人ではなかった。

    この不思議なオノマトペ言葉だが動詞化することがある。正式な動詞と言う名称ではないが…。普通は「…つく」、「…めく」などの動詞がくっつくのであるが、そのオノマトペ言葉自身が動詞化されたものも沢山ある。オノマトペの原典はフランス語で、英語ではオノマトペアと言う。視覚,触覚等の感覚印象言葉。何故か分類では聴覚は含まれていない。人間の触れるもの全てである。聴覚は耳に触れる感覚であるからオノマトペ 語は触覚であるのかもしれない。そこで動詞化されたオノマトペ言葉は動きを表現するようになった。例えば漫画の一コマの静止した絵を意識的に動かせる役目としての吹き出しの中に書きこむ言葉に使われるようにもなった。…同じようにオノマトペが動詞化すると動きに動作の強弱まで表現が可能になってきたのである。有名な言葉では祇園祭のお囃子「コンチキチン」。「カンデンデン」壬生寺の壬生大念仏狂言。このように「…つく」、「…めく」などの言葉をくっつけなくても、すでに動きを表現する言葉があるのだ。 

        五円玉ころりころころ残暑見舞   吉澤利枝

俳誌「歯車」366号より。「ころりころころ」はオノマトペだが転がる様子が生き生きと目に飛び込んでくる。「転がる」と言葉を使用して表現をしなくてもよい。むしろ通常の転がり方以上に転がっているのだ。まるで五円玉が生き物のように弾んでいる。動作が限りなく連続して起こっていて絶えることのないことまでわかる。感情表現がマックスなのである。作者は、意識してこの言葉を使ったのではなく、目に見えたままの驚きを言葉にしたのであろう。この言葉がわざとらしく思えないのである。実感を大切にすることが、感覚をオノマトペ言葉に置き換えるときの重要なポイントで、言葉を意識して作ってはならないのである。言葉そのものが不自然であってはならない。

    この他に、動きを示すオノマト言葉には…ぐるぐる・くるくる・ごろごろ・ぴゅんぴゅん・からんからん・きゅるきゅる・しゅるしゅる・ぼろん・ごつん、などがある。動きを表すオノマトを大きく分類すると 六種類に大別できる。飛ぶ・押すまたは引く・揺れる・伸ばす・回る・叩くもしくは当たる、の動作より発生される擬態語である。 

         石の家にぼろんとごつんと冬がきて   高屋窓秋

昭和28年第3句集『石の門』(酩酊社)より。「ぼろん」は楽器を弾き弦の揺れて出る音である。「ごつん」は物がぶっつかった時に出る音。いずれも物が動いた時に発生する現象音である。動作は人間の仕草だけではなく、自然界の動きの中にも一杯ある。俳人は、それらを目視して自分自身の体内に取り込み感覚として受け取るのである。感性は如何ほどにあっても言葉に置き換えなければ伝達されない。この高屋窓秋の句は冬の感覚を自分自身の言葉とするのにオノマトを使ったのだ。ここにはこれ以上はないだろうと思うほどに感情のマックスがあるのだ。冬の到来を告げるのに最高の感情表現をするこであったのである。この句を鑑賞する者にとっては充分に納得出来る。作者のこの時の気持ちを表現するのにはオノマトペでなければならなかったのだ。だが、感性即オノマトペとはなかなかなりにくいのである。ここには理解出来る言葉としてのオノマトペが必然となってくる。作者自身の勝手言葉を作ってはならない。新しい感性を生むために努力をする。それ故にいい加減な勝手オノマトペが誕生する。

   本人自身にしか理解出来ない俳句言葉を作ってしまう人がいる。その代表がオノマトペ言葉俳句にはよくある。私には…このように受けとれた、感じられたでは困る。ポップ言葉とは…思っていること、感じていること、全てを内心から吐き出すように放出すること…である。その言葉そのものがオノマトペなのである。作者自身が自分の身体で受け取ったものが感性を通して言葉に置き換わる、この過程が大切なのである。オノマトペ言葉は自分勝手な勝手言葉であってはならないのである。新鮮な言葉が全てポップ言葉とはならない。冒頭の文章で述べた小学生の心である。あくまでも心身の基本に立ち返り、純真な詩精神でありたいものである。