俳 句 言 葉 の 魔 法

                                                  昭 和 ロ マ ン を 求 め て

                             児島庸晃

    昭和は遠い昔の時代になってしまったのであろうか。時々懐かしむほどに時代はいろんな思いを残し過ぎ去ろうとするのだろう。思えば思うほどに時代はいろんなものを残してゆく。昭和は言葉の引き出しをいっぱい保持出来た時代であった。それだけに人間の心が豊かな時代であったと言えるのだろう。精神的なものが取り残され物質だけが進んだ歪んだ日本の姿。世の中に批判的な心をもって生活している人には生きるのが大変な思いをする。アウトサイダーな人間をつくっていく時代。それが今の日本の姿である。そして平成の俳句・永和の俳句も…。昭和の俳人は心の何処かに、すこしでも持つ事の出来る楽しみを託した夢を魔法にしていたのかもしれない。昭和は未来へ向かって俳句を革新させる俳人たちでいっぱいだった。ここには生活に魔法をかける言葉で溢れていたのだ。

   そのずーっと昔に大正ロマンがあったように、昭和にも、それに匹敵するロマンがあった。時代は戦争と言う、とてつもない暗いイメージが思い出されるが、人の心は夢を求めて生活をしていた。私は、これらの夢のある言葉を魔法にしてゆく俳句を求めてゆきたい。心の豊かな時代へ、戦争という悲惨の中でも追い求めてゆく俳句があった。そして戦後も心にゆとりのある社会があった。私はそのような夢を魔法に変える言葉のあった時代を昭和ロマンと呼称したいのである。

           モーテルは灯の祭典館 枯野の芯        伊丹三樹彦

この句は、まだ白熱電球の頃の情景である。この「灯」は優しい暖かい輝きを一杯たっぷりと感じさせるものである。謂わば人間の心そのものなのだと思う。この句は青玄同人句集Ⅲ(昭和四一年)に収められている。当時私は二五歳であった。伊丹三樹彦の四〇代後半の作品である。何よりもこの新鮮さには目を見張った。この「モーテル」の言葉はいまでこそ知られてはいるが当時は新聞によって知る程度で俳句で使われたのはこの句が初めてではなかったかと思う。「灯の祭典」なる造語は実に敏感な反応であり、美しく純粋である。枯野の中心を「芯」と把握してその中で光り輝くモーテルの存在を強く望む三樹彦の思想は多くの青年の心を捉えたのだ。どんな環境にあってもけっして滅び去らない生き方。ここには三樹彦の現在を生き抜く強さとしたたかな心の強さを感じる。これは純粋な心あってのもの。あくまでも妥協を許すことを嫌った今日までの生き様でもあろう。昭和を代表する俳句の一つと言っても言い昭和ロマンを感じる。

         しぐるるや駅に西口東口   安住 敦 

人の心はロマンを生む。それは何ゆえにというのがこの句である。この句は昭和二一年の作品。句集『古暦』に収められている。「田園調布」と前書がある。昭和二一年と言えば終戦の翌年である。人々の胸中には鬱々とした虚しさと寂しさ、そしてどうすることも出来ない虚脱感が漂った社会であった。…このような社会情勢の中での作品である。降り出した時雨に戸惑う人たち。電車から降り立った人々はすこし寒くなってきたのであろう、コートの衿を立て足早に歩み去る。または傘を持って迎えに来た人。改札口を出てともに別れを告げる人たち。電車から降りてくる人を待ちながら時雨を見上げる人。駅は様々な々な人が集まり、また分かれてゆく人の出会いの場所なのであった。この作品は昭和二八年に公開された小津安二郎監督「東京物語」を思い出す風景であるが、この映画の上映よりも先に作られたものである。この句での描写は「小津調」と言われる美意識を追求する映画手法のそのものだった。「小津調」とはロー・ポジションと言われるもの。カメラを固定、ショット内の構図を変化させない。人物を相似形に画面内に配置すること、人物がカメラに向かってしゃべること、クローズ・アップを用いず、きまったサイズのみでとる。この描写は物静かな中に人の内面を強く描くために大げさな動きをさせなかったのである。だが「小津調」には静かな暖かさがあったのだ。即ちロマンがあった。この句には人間の仕草などは一切描かれてはいない。しかし作者の心中には、素直な心でこの光景を見届ける人間のゆとりと時間の静かな流れを味合うことが出来ていた。この光景に、この句を詠んでいる作者と共に、私たちは心がほっこりとすることが出来る。これそのものが昭和ロマンなのである。

         死にたれば人来て大根煮きはじむ   下村槐太 

人と人の触れ合いが、どれほど大切であったのかを物語る俳句は、この句を味合うことで知ることが出来る。この心のつながりを暖かくして、隣同士が楽しく生活してゆく素晴らしさ…ここにも昭和ロマンの香りを感じることが出来る。一生が清貧の積み重ねであった下村槐太にとって、この心の温もりは近隣の暖かさをじっくりと見届ける時間に浸りきる優しさであったのだろう。『下村槐太全句集』(昭和五〇年)に収録されている句であった。この社会の世界は、まるで「三丁目の夕日」の原作者…西岸良平の下町の風情を感じさせるもんだった。人と人が触れ合い温め合う心の溶け合う人間の生きていることの素晴らしさは、そこに人間のいることの素晴らしさでもあった。昭和の心は人情の細やかな生活の機微の中に、それぞれ異なる心の奥にあるロマンで満たされていたことではなかったであろうか。

    だが、よく考えていただきたいのである。昭和の俳句はどうして、このようにロマン溢れる句を作ることができていたのだろうか。いま、ふたたび疑問が湧くのである。

    その一つに俳句らしい技法を用いなかったこと。そして最大の特色は私性の文体に徹したこと。この二つである。私性とは私が、或いは私自身が堂々と登場して主張することではなかったのです。現代の俳句文体のように口語で喋りまくるようなものではなかったのである。「小津調」と言われるような、映画監督の小津安二郎の生活文化の世界であった。

    場面のクローズアップはしない、ロー・ポジションと言われるもの。視覚範囲を固定し広げない、構図を変化させない、読者に向かって語りかけることだったのである。まさしく次の句は俳句に於ける私性であった。 

           耕せばうごき憩へばしづかな土   中村草田男 

この句が作られたのが昭和二一年である。敗戦の翌年。従って物資のない生活の毎日であった。食料も自作の頃。土へ話しかけるように接し、土から語りかけて来るのを待っているのである。場面のクローズアップはない、構図は変化させてはいないのだ。この静かな視線の先より、ひたすら話しかけて来るのを待っている姿勢。これが「小津調」のロー・ポジションと言われるものだった。この句には、俳句を魔法に変える言葉が隠されていたのである。

 最後に私の一言

…レトロであることが昭和ロマンではなくて人間の心がレトロであることがロマンなのである。ロマンはいつの時代でもレジェンドなのです。