その一句は何を表現したいのか
児 島 庸 晃
俳句を読んでいて何故と思うことがある。…その句を何回読んでも何を主張したくて作ったのか、何を伝えたかったのか、理解できない句が最近多くなったように思う。これは作り方が拙くて、充分に表現しきれなく伝達出来ていないのではないようにも思われる。作者が何を主張するのかを決めないで見たものを、そのまま作者なりの感覚に頼り句として表現しているのではないかと思えるのは私だけではないように感じる。受けとった感覚と主張するべきテーマとは別である。感覚が全てではない。だが、新鮮な感覚をそのまま写実する、と言う句の作法が普通であるかように思われているのが現状であるのではなかろうか。上手い句であっても読者を魅了しきれないのは、何故だろうかと考えて、もう数年が経過した。どうやら、感覚はあっても、その句を受け入れられなかった理由を…やっと摑むことが出来るようになった。
大辞林によると、一文の構成はテーマとレーマにより成り立っているとある。
テーマ…創作や議論の根本的意図
レーマ…文の中で伝達の内容を表し,新情報や未知の情報をもつ部分。
では、もっと具体的に詳しく書いてゆきたい。
一月や白きものみなその位置に 和田悟朗
句集『人間律』(平成17年8月ふらんす堂)より。この句を作った時、国立奈良女子大学工学部の教授であった。この句のテーマは「一月」であり、レーマは「白きものみなその位置に」である。写生から俳句への入口が、写生であっても写生を感じさせないほど心象に近いものである。…それはレーマの部分がしっかりとしているからであろう。しっかりと目の前で視たものをリフレインし、もう一度心で確認して言葉にしているからである。このとき何を主張するのかを作者自身の目で対象物を捉え、それを「白きものみなその位置に」とレーマにしている。テーマである「一月」の季語。この季語は一年の始まりを純粋に見詰める一俳人の人間の原点でもある。ここで読者を魅了するのは、このレーマである「白きものみなその位置に」に託す作者の思いをこめることであったのだろう。その句に読者を引き込むのはこのレーマの部分にあるように思う句であった。このレーマになる部分の言葉が心感覚であり、それは同時に作者の思いを感じさせる言葉であるからこそ、読者を納得させ、また魅了するのだろう。
作者自身が見た目の前の光景を、作者自身が受けとった感覚だけで表現すると、それは俳句にはなるが、そこには感動したり、心に染み込んでくると言う、読者を魅了する一句にはならないのではないのかと、私なりに思えるようになった昨今である。そこでテーマもレーマもしっかりあるのに、それがフレーズであったり、観念語であったらどうであろうか。そのことを私が私なりに思ったのは次の句であった。
夕月やしっかりするとくたびれる 池田澄子
この句は句集『たましいの話』(平成17年7月角川書店)の中の一句である。テーマは「夕月」、レーマは「しっかりするとくたびれる」。このレーマの部分がフレーズであり、また観念語でもある。
普通は句を作るとき、目の前に映像があり、その光景より発想し句を作るが、この句はフレーズがあって、その観念に基づき、そこより句を作る。…そのようなことを作者は考えてはいなだろうが、私にはそのように思える。そしてその観念を光景の中に溶け込ます。この作句方法を万人に納得させるのは大変な困難を伴う。それは一行の説明文になってしまうからだろう。説明文というのは散文だからである。散文というのは意味に重点を置いての文の構成であるので、観念語になりやすい。これに類して、よく言われるのが知覚語である。知覚とは私たちが見た現実を、もう一度鏡に写すように再現するときに知りとる感覚である。従って映像が脳中に残る。一枚の絵のように目で見た姿そのものが、目の前のそこにある。観念語は絵に描けない言葉だが、知覚語は絵に描ける言葉なのである。先に映像があり、その映像に沿って発想を起こし展開させる作句ではない。本来の俳句作法とは異なる。この作品のフレーズが深層意識を引き起こし、人々の意識を呼び起こさせるには従来の俳句観では駄目であろう。
娘もあって一生を柿の明るさ 田中いすず
俳誌「歯車」355号歯車集より抜粋。この句もレーマが「一生を柿の明るさ」とフレーズである。だが、テーマが分離している。…というより二つある。言語としてあるのは「娘」。そして言葉としてはないが「私」。つまり作者である。一句の中で二つは成り立たないので主題と副題ということになるのだろうか。この句もフレーズの強みで一句にしているが、やはり観念語である。その観念を光景の中に溶け込ます。読者に俳句であることを示すには大変難しい句である。田中いすずさんの一連の俳句は好き嫌いを伴うようで、いろんな意見が私の私信宛にはある。俳句性を問われると、すこし疑問を感じる人もいるのだろう。だが、俳句の感性は個人のもの。俳句の伝達はフレーズに伴うテーマの伝達でもある。テーマの伝達されにくい問題の一つに作者の視線の問題がある。句の中における作者の対象物を見ている位置が、はっきりしなければならない。どの位置に立って見ているのかが重要になってくる。つまりこの句は「柿」の見える現場での制作ではないように思われるところに句を伝える弱みが感じられるのだろうか。リアリズム派の俳人からすると臨場感の強みを感じないのだろう。それは「一生」の言葉の扱いであるのではないかと思われる。句全体の中に於いて言葉が浮いてしまって定着してはいないことであるように、私には思われる。作者は強調することにポイントを求めたのであろうが、この「一生」の言葉だけが浮き上がっている、と言うことなのであろうか。臨場感が薄められたのである。…このことは観念語の使用は大変難しいということなのであろうか。
このようにフレーズが観念語であった場合は、読者を納得させ共感してもらうには、日頃の作者をよく知っている者であれば、理解できるが、作者と関わりのない人には伝達されにくいのである。伝達されにくいということは、主張の仕方の問題である。だが、もっと問題を難しくしているのが、テーマもレーマもわかりにくい句に遭遇することである。
囀りや天文台は銀の球 田中裕明
二〇〇四年「俳句研究」六月号「櫻守」30句より抜粋。この句は感覚の先行する句で「天文台」を「銀の球」と作者が受けとったところに新鮮な驚きを読者は感じるものである。だが、テーマもレーマもわかりにくい。鳥の「囀り」がテーマであり、「銀の球」がレーマなのだろうが、それが作者にとってどうなのか、どのように影響して、作者にとって何をどのように関わってくるのかが、想像し難い。自然詠の句であっても、対象物を見ているのは作者である。当然ながら、自分自身としての作者を重ねている筈である。作者独特の伝えたいテーマが見えてこない。ただ美しいと言う光景だけの主張では、現代人は満足しなくなった。
現状の俳句を現代人が満足しなくなった原因のひとつに俳句に使用される言葉の記号化がある。フレーズや、それに伴う観念は言葉の記号化になりやすい。そこで本来、記号とは何なのかだが、言葉は絵と違って、目でその内容を見ることが出来ない。言語の意味を知ることは出来ても、絵のように見ることは出来ない。その言葉のひとつひとつは文字である。文字は絵と対比して記号として定義される。フレーズは言葉の記号化であり、もっと詳細に考えれば文字一つ一つの記号化でもある。多くの内容を短く纏めるのにはフレーズにする、この事はコマーシャルのコピーと同じ。俳句に適用するにはフレーズにするのが最適であった。だが、記号には情感がない。記号化された文字には情感は感じられないのである。フレーズは記号化された文字言葉の集合である。
ラ・フランス絶対転ばない自信 春田千歳
俳誌「歯車」355号歯車集より抜粋。この句のレーマは「絶対転ばない自信」である。そしてフレーズである。また観念語でもある。それでいてこのフレーズは観念語としては受けとれないのである。何故なのか。可成りの日数を要し考えた結果、観念語としてのフレーズではないと言う結論を得た句である。記号化されてはいるが、そのようには見せない工夫がなされているのである。勿論、ここには心象の、それも作者独特の俳句に対する思考が伺えて、思考までもは記号化されてはいなかったのだ。言葉とはジグソーパズルのピースである。その一つ一つのピースまでもは記号にはなっていなかったのだ。俳句は、そのピースの集合である。記号にはなっていないピースが相互に組み合わさり一枚の絵になっている。そのときに「ラ・フランス」のテーマが見えてくる。あのなんとなく縊れた不安定な「ラ・フランス」の形状を思い出す。「絶対転ばない自信」のレーマは作者の眼前で作者の思考をより確かなものとして定着した。「絶対転ばない自信」は言葉としてではなく、一枚の絵として定着したのだ。
現代俳句の進化は、読者を引き込むことだが、この多忙な社会のなかで作者の主張がなければ誰も見てはもらえなくなるだろう。そしてそれが、たとえフレーズであっても観念になりきらないことであろうか。新鮮なフレーズを求めてどんどん進化してゆくのだろうが、文字言葉そのものは記号である。記号には感情がない。その感情を含まぬ文字言葉を集合させたのが俳句である。フレーズや観念を情感に高めて意味言葉を伝えるのには、一枚の絵にして言葉を定着させることではないのかとも思う。フレーズには観念が入りやすいので、言葉選びには特に心配りが大切のように思う。昨今の現代俳句の問題点は多々あるが、このフレーズの使用による観念語の是非が課題となってくるだろう。