良い俳句の基準とは…

                                                俳句における誇張表現を考える

                 児 島 庸 晃

    よく聞かれる言葉に、良い俳句を作る基準とは何ですか、と唐突に話しかけてくる人がいる。当然のことのように必死で聞いてくるのだが、私としては、一度もこれだと確かな答えをしたことはない。これから俳句を作り真剣にことをなしてゆこうとする人ほど、その気持ちは強い。もっとものことだが…。どこの結社誌や同人誌、仲間誌を見ても、これだという定義は見たことがない。一つ一つの句の解説において、ここが良いという説明らしき言葉はある。いったい、俳句の良い作品、良くない作品の基準はあるのだろうかというのが、何時も私の心の奥にあった疑問である。

    一般的に思われているのは、新鮮で目新しい感性があるといえば人の心を捉えて入選はする。新鮮というのは、未だに誰の目にもふれていない感覚を有するこであるが、単純にその句が良いとは言えるのであろうか。新しい感性が、何時も何時も生まれるものでもない。人間の感情や感覚は、ずっーとずっーとその昔より現在まで大きな変革などするものでもないのだ。作った自分の句が少しは心惹かれる句だと思っても、大抵は誰かが作った二番煎じである場合が多いのが現状。新聞投稿欄や雑誌のコンテストの特選句が陳腐や月並み表現であったりするのもそんなに感性は、新しくはならないのだろうと思う。逆に新しい感性を込めようとすと、全く伝達されなくなる。この問題は感性を言葉にするときにあり、その感性を新鮮なまま言葉に変換することは容易ではないと言うことなのだろう。いま必要なのはその新鮮な感性を残したままに新鮮な言葉になる言語を見つけ出さねばならないのである。

    私性の文体は…この新鮮な感覚を新鮮な言語に変換するに最も適した文体であった。次の句を見ていただきたい。

      ねむい春日の触手肺から腐る僕   新里純男

       街は桜の季節で行方不明の僕    新里純男

       誤診ではなかった胸裡の薔薇さわぐ 新里純男

『青春俳句の60人』(森 武司著)より抜粋。この作者は昭和三十五年、桜開花中の四月十九日、二十六歳で人生を終わったのであるが、右の三句は絶唱として今でも私の脳中に在って消えないのである。俳誌「青玄」で伊丹三樹彦が育てた俳人であるが僅か三年の在籍であった。この命日を風船忌と言う。そのデビュー句…昏い雨季の日本を棄てた赤風船…から三樹彦が命名したものである。当時、まだ花鳥諷詠が勢いを誇っていた時代、若者の心を魅了したのは何故なのか。ここに私たちが忘れられている人間の心理が隠されている。多くの俳人は必死に自分の内面ではなく、自分の外の自分のまわりばかりを感覚にしようとしているのである。感覚即ち感性は自分の外にあるのではなく、自分自身の内面にあり、心の在り方に起因している。分かりやすくいえば自分自身の心情なのである。一句目の「ねむい春日の触手」と捉える感覚も、作者本人のもので「ねむい」と思う感性は心情なのである。この感性を言葉に変換しなければならないのだが、感性が言葉になる過程で多くの俳人が、最初に感じた感覚をそのまま残せないで鈍化してしまう。生まれ出た言葉が他人事になっているのではなかろうかと思う。二句目における「行方不明の僕」も三句目の「胸裡の薔薇さわぐ」も自分の内面の心情なのである。ここには私性の文体の必然があったのだ。私性とは「私」を主張することではない。「私」を語る事でもない。「私」の心情を詩として受け取ることである。決して散文の文体になってはならないのだ。

    新鮮な感覚をその新鮮なままの言葉で俳句全体を包むことが出来れば、その句は人々の心を掴み共感していただけるのではないかと思っている。その方法にはどのようなものがあるのだろうか。私性の文体を大切にしなければならない要素の一つに誇張がある。誇張とは何なのかだが、国語辞典には次のように書かれている。

       事物を過度に大きくまたは小さく形容する表現法 

表現法の一つと記されている。俳句にとって言葉の選択は俳句の成否を左右する最も大事なことで、この誇張を取り入れる言語の選択は有限である。十七音の制限範囲においてであり無限ではない。そういくもはない言葉を選ばねばならないことになる。そこで誇張された最も心情にふさわしい言葉を見つけ出さねばならないのである。

        螢や明るい自死と思いたい    堀 節誉

俳誌「歯車」359号より抜粋。この句の私性には心情の誇張がある。感性の素晴らしさを言葉に変換するに神経を施したあとが伺える。「明るい自死」としての感覚は即ち素直な作者の心情でもある。この「明るい自死」は言葉の強調ではない。強調は、良く分かるようにすること。相手に強く印象付けること。誇張は自分の想像、期待などを含めてあることで感覚がそのまま心情に現れる。「明るい自死」と希望なり期待が込められていて、この心情を含めることが誇張なのである。新鮮な感性を残したままに、この感性を鈍化させないで雰囲気を保つことが言語の誇張なのである。

 私性は即ち心情である。ここで気をつけなければならないのは何かを言いすぎているか、何かが言い足りない句に出会うことがある。心情というものは、表現するときに心情がそのままストレートに表面に出てしまうことである。これは誇張ではない。

   かげろふと字にかくやうにかげろへる  富安風生

この句、話題になった句ではあるが、富安先生の心情があまりにもストレートである。その句そのものの柔らかな心情を出すのに、殆どをひらがな表記にしたものであろうと思う。心情は言葉が機能してこそ生かされるもの。言葉が機能していなければそれはただの言葉、言語にすぎないのである。言葉が言語としての働きをしなければ、それは意味でしかなくなる。あまりにも句のある場を大切にすると、現場主義になってしまい、現場の説明をしてしまい、それらは言葉の意味になってしまう。心情はストレートに出てしまう。ここで心情の誇張を、そのまま表現してはならないのだ。

 次の一句も言葉の機能が不良消化を感じさせるのではないかと私は思うのだが…。

    過去を皆美しくして薔薇を抱く   岩城久美

神戸新聞文芸」平成27年7月6日掲載より。神戸新聞一般投稿欄、選者…水田むつみ…さんの特選句である。この句は、上五から中七にかけての言葉が「過去」「皆」「美しく」と観念語でまとめられている。本来、観念語そのものは意味を突っ張るものである。お互いの主張を強く表に出す。ここに使用されている三個の観念語、「過去」「皆」「美しく」は堂々と主張して飛び出す。…すると句を受け取り味わうものとしては嫌気になる。何故なのか。これら全ては説明になってしまうのだ。感覚として発想した目視の状況が説明として纏められているのである。そのことの原因を突き止めると、言葉が機能しないまま言葉だけの句になったのだ。言葉が機能しなければ、実感の湧かない作りものになってしまう。

 また、これは私見だが私が思うこと。、「現代俳句」平成27年8月号よりの抜粋。ここにも言葉の機能に関し、すこし考えさせられる句が出ていたので吟味したい。

   尺取に後悔満ちる縮みよう  池田澄子

池田澄子さんにしては珍しく観念語の積み重ねの句である。その観念語というのは「後悔」・「満ちる」。ふたつ観念語が続くと双方が意味を突っ張って落ち着きづらくなるのではないかとも思うのである。意味上はまとまりやすくなるのだが、俳句は意味を正すものではないからだ。あまりにもその場の情景に忠実になると説明になってしまう。それは、言葉そのものは観念であるからである。下五の「縮みよう」でイメージを映像化して感覚を素直に表現しようと努力しているだけに、言葉が機能化しないで説明化するのは惜しまれる。作者が目視で受け取った感性が観念語の連続使用で言葉そのもの機能を失うのは残念である。機能化出来ない言葉の使用は緊張感を失う。それは作り物のように思われるからだ。

 その緊張感だが、次の句をみていただきたい。 

   空蝉のくらき眼を持つ東京都    栗田希代子

俳誌「歯車」360号より。誇張といっても、単に言葉を感覚にして読者に示すことではない。この句は意外性という誇張が言葉として示されている。言葉を対比させることによる誇張である。その言葉とは「空蝉のくらき眼」と「東京都」である。大都会である「東京都」の中における一つのちっぽけな「空蝉」の存在を対比しているのである。言葉の対比は心情の対比でもあった。ここには誇張という言葉の機能が充分に働いているのである。対比という言葉の選択は表現方法の一つだが、新鮮な感性を新鮮なままの言葉に変換するのには、最も適していた。ここには感覚の鈍りや衰えはないのである。

 私たちは良い俳句を作ろうと、常日頃より思っていて努力してはいるが、何故か言葉が段々と古くなっているのだ。作っても作っても新鮮な感性が現れてはこない。いろんな俳句に関する勉強を怠ってはいないのに…。これは言葉の本質が分かっていないからであろう。言葉は言葉自身に機能を与えなければ何も動いてはこないのだ。そこで動かすためには、言葉を誇張させることであり、それに技巧をもたらすために心情の対比があったのだ。良い俳句とは言葉が機能するように工夫することのように私は思う。新鮮な感性は新鮮な言葉を生むことであろうが、そこには誇張という心情の言葉の選択があった。