観念語言葉では日々の生活は満たされない

         俳句はコピー感覚ではないのだと思う

              児 島 庸 晃

 最近、私が思うことの一つに俳句の散文化がある。五・七・五の定形を踏まえていれば、全て俳句なのだと思っている俳人が多くなっているのではないか。…こんなことを私が思うようになったのには理由がある。俳句を作すのに言葉が先行して、それ故に意味だけの俳句が通常のことのように進行しているのではと思うことが多くなったからである。俳句における散文的という言葉は一般的には味気なく、情趣が薄いという意味でそのような言葉が使われることでもあるのだ。これでは日々の生活の潤いを満たすのには何の役にもたたない。毎日の傷ついた心を救ってくれる温かさにはならない。

 俳句の現代化が、或は口語化が進むと当然のように日常的になり、心まで緩んでくるのだろうか。やはり俳句そのものは寄物陳思であり作者が物を見て、その物から受け取る心が大切だと私は思っている。この時に自己の確認が大切で作者自身の発想表現が可能になるのだろうとも思う。だが今の俳壇は俳句のコピー化現象を産んでいるのではないかとも思われる。コピーは言葉が機能することにのみその重点要素があり、意味がより素直に素早く伝わる事が出来るようにライターが仕掛けることで、その大きな目的は全てが意味のみでのその役目を果たすものである。コピーとして作られた一文には広告宣伝が目的であり、味気なく、情趣が薄い、というのは当然のことのように私は思う。今日の俳句がこのコピー感覚らしく、否、コピーそのものになってしまったのではないかというのが最近の私の感想である。 

   目をかるくつむりてゐたる風邪の神  今井杏太郎

今井杏太郎句集『海鳴り星』(2000)より。作者は1997年「魚座」創刊主宰。2000年『海鳴り星』で第40回俳人協会賞受賞。2006年「魚座」終刊。この「風邪の神」の句は作者の日頃からの主旨発言の中にある、俳句は…季語・時間或は場所・作者自身の思い…があれば作れるとの言葉にそったものである。だが、この句はすこし句の作りを誤ると散文になってしまうところを、そうはしないで寄物陳思にしたものである。言葉使いが平明であり、極めておとなしい。これといった特殊な表現もない。それでいてこの句を読む者には力強いインパクトを与えている。何故だろう、と私は思った。分かり易い言い方をすれば、何故この句を読んだ時に、心を奪われてしまうのかとも思った。全てはこの句の趣旨が寄物陳思の思考の中において作られたものであるからである。「風邪の神」は誰も見たことのない姿。つまり作者の想像する姿である。この架空の姿を観念の言葉にはしないで具象化して見せる言葉にして表現しているのである。…「目をかるくつむりてゐたる」と。この俳句言葉こそ物に託して見届ける心としての作者の趣旨のありかたなのである。つまり、「風邪の神」は優しい可愛い神様であり、病気の元になる怖い神様ではなかったのだ。所謂、寄物陳思なのである。

勘違い、もしくは考え間違いし易い物の表現に観念語と言われる俳句言葉がある。観念語は、その言葉自身が自らの意味を有しているものだが、この言葉を現実の生の感覚経験でのみ使用すると、それ自身が説明言葉になり、その言葉そのものが散文言葉になってしまうものである。それ故に俳人は観念語と言われる言葉そのものを俳句言葉にするのを避けてきた。多くの俳人は心して嫌がってきたのである。だが、観念語言葉は使い方をあやまらないで正しく補正すると、見事な緊張感をもたらす句になることが現代俳句の分野では理解されてきた。この観念語を作者自身の心境として表現することが従来の欠けてしまっていた危惧を取り払うことになり作者の心境を深めることが出来るとわかってきた。観念語の上手な使用が作者の心中の不安を防ぐことと知り、俳人は不安を避けるための観念語使用のいろんな工夫をしてきた。そして現代を表現するのに使い方をあやまらねば充分に心を表現すものであると理解されるに至った。次の句もその一つであるのではないかと私は思った。

   考えて水面をすべるあめんぼう   宮腰秀子

俳誌「歯車」378号より。この句には巧みな操作があり、観念言葉が散文化にならないよう試みているのではないかと私は思った。その観念言葉とは「考えて」である。この言葉は一般的に使用されると、日常の生活における慣習語である。したがってとても意味性の濃ゆい言語で説明語である。俳句言葉としては使用出来ないのである。…でも、ここでは俳句の言葉として大切な目的を果たしているのである。何故!、と私は考えてみた。やはり、ここには寄物陳思の心がしっかりと込められていたのだ。「水面をすべる」と言う俳句言葉が作者の見届けた寄物陳思なのである。「あめんぼう」が水面を行く時に見た姿を心へ呼び入れたそのものが寄物陳思なのである。「水面をすべる」の俳句言葉の配慮が俳句を散文へと流れてゆくのを避けた工夫であった。心深い俳句へと読者を導いた理由であった。

   草も木も緑奔放だが眠い    児島貞子

俳誌「歯車」377号より。この句も散文俳句と勘違いされ易い句である。一見そのように思える。しかしこれはれきっとしたしっかり作られた俳句なのだ。勘違いされ易い句と言うのは、一句の中に使われている喋り言葉があるためである。その言葉とは「だが眠い」。喋り言葉と言うのは日常生活言葉であり、意味性にそのポイントがある。よって感情の発露がそのまま直に出る。所謂意味性が強すぎるもの。…でも、ここでの使用はそのことを承知で俳句言葉にしているのだ。ここでの「だが眠い」は感情言葉にはなっていないようにも思われる。何故ならばこの言葉がもろ出しの感情としてではなく、情緒としての印象を強めているからである。その根拠は寄物陳思の俳句精神を理解しての考慮が働いているのである。「草も木も緑」の俳句言葉が考慮されるとき作者の目視の果てに得た光景を寄物陳思しているのである。口語表現の試みは散文化し易いのだが、大胆にめいっぱい表現すると味のある俳句になることを実証しているのかもしれない。

   白菜を割って緊張解いてあげた  諏訪洋子

俳誌「歯車」374号より。この句の句体は著しく従来の俳句の方法とは異なっているのだが、この句は散文化しているのではない。心の柔軟さが強調されての口語体の表現を産んだのである。その柔軟な表現を感じる俳句言葉とは「解いてあげた」である。何故!と問いただしてゆくと、そこには凄い作者の試みがなされているのではないだろうかと思う発見に辿りついた。「解いてあげた」の感情表現言葉は対象物を目視しただけではなかったのだ。目視した「白菜」を目に入れて見ただけではなかった。目視した時に「割って」と作者の意思が働き「白菜」の丸く固まっている塊に「緊張」感ゆえの苦しみがある、とまで見詰める心。…それそのものに作者自身を見ている思いがあったのであろう。これそのものは寄物陳思である。目視の果ての強い心の発露は寄物陳思そのものである。句体は口語体での表現形式ではあるが決して意味だけを強調したような俳句ではなかったのだ。ここでの句体で注目すべきは「解いてあげた」の使い方である。「緊張」と「解いてあげた」の接続に助詞を使わなかったことである。例えば「を」などの助詞を使っていれば説明語になり散文化してしまうのだが、使用がないので散文にはなっていない。「解いてあげた」は口語体の俳句であっても散文化になってはいないのだ。その俳句作品としての模範となる試みをしている一例として考察をした。

   精神科の空を小鳥が歩きまわる    穴井 太

現代俳句協会「データーベース」より抽出。1956年、北九州市で益田清らと「未来派」を創刊。1963年金子兜太の「海程」同人。1973年第20回現代俳句協会賞受賞。この句も散文的俳句作品と間違いやすい句体である。何故だろう。「歩きまわる」と言う言葉の表現が口語発想であるからである。口語発想とは日常語に近い口調で親近感を受ける要素が強くて印象深く心に入ってくるもの。故に言葉が流れてしまうのであるが、この句には日常茶飯事の出来事のようには事が流れてはいないのだ。それは作者の心がしっかりとしていて、ただの意味的のみでの喋り言葉にはなっていないのである。「小鳥」をしっかりと目視しての寄物陳思がなされているのである。「精神科」の言葉はすこしばかり刺激のきつい名詞なのだが、実際の病院が目視の中に存在していて、その刺激の強さは作者自身の心へときつく感じるものであったのだろう。…この部分が意味だけにとどめておくわけにはいられない心の叫びへと繋がっている。しっかりした目視がなっての寄物陳思である。目視がしっかりできている状態のものは散文的俳句作品にはならない。  

 次の句も穴井太の俳句作品なのだが。観念語が使われたものである。この句の場合の観念語とは「苦しめり」である。

   一樹のみ黄落できず苦しめり   穴井 太 

句集『原郷樹林』1991年より。この句は散文的傾向の強い作品である。それは観念語が突出して使われているからである。その観念語とは…「苦しめり」。何故観念語と規定するかであるが、言語そのものには、そのもののもつ意味が、すぐに理解出来るやさしい分かり易いものから考えなければ理解しにくいものまであり、その理解しにくい部類にあるのが観念語と言われる言葉なのである。言葉としては、その言語だけでは独立した意味をなさないもの。常に別の物を介してでなければ意味を知ることが出来ないものを観念語と言う。その言葉自体では意味を充分に理解出来ないものなのである。…この句の場合が、そのような観念語の使用のため散文の句文になっているのである。詳しく述べると、「苦しめり」の一文では、しっかりとした意味が分かりにくいのである。説明がいるのである。そのために何か別の補助の言葉がいる。それが「一樹のみ」の言葉なのである。このことは意味を説明するのに、別の言葉を使って説明をしなければならないことになるのである。意味に説明を付帯すると、もうこれは散文の一文になってしまい感覚を納得させるにはいたらない。同じ作者の穴井太の句でも句体の認識の有り様で散文になったり俳句になったり変化するものなのであることの一例である。

 昨今の俳句作品を見ていて思うことは、この句はどの部分に俳句としての価値があるのだろうかと思うことが多くなってきた。思えば思うほどその思いは混迷しているのが私の俳句に対する思考である。日常の生活意識としてのものの価値基準が変遷してきたのであろうか。俳句の基準そのものがわからなくなってきた。やはり俳句そのものは散文的になってゆくのであろうか。基本としての寄物陳思は何処へ行ったのであろうか。寄物陳思は表現の方法こそ異なってゆくのであろう。でも目視の果てのその先に見つけ出すものには意味が存在はするのだが、その意味には根拠がある筈。その根拠には心が存在する。その心の必然には感覚が生まれる。その感覚は説明言葉であってはならない。その説明言葉はコピー感覚であってはならない。説明言葉は観念語になる。目視なしでも出来るもの、言い換えれば物を見ないで頭の中で言葉を創りだすことが出来るものにコピー文がある。俳句は目視がなされてこその感覚的発見なのである。感覚的発見、発想には緊張感や臨場感が強く出る。故に味気なく、情趣が薄いと言う俳句は生まれないのである。句会などでの一時的受けの良いコピー向きの俳句作品であってはならない。