昭和40年代の青春俳句

         俳句結社「青玄」青春俳句をふりかえって

               児 島 庸 晃

 俳句は作者の生き方或いはどう生きるかの思考がなければ、読者がその作者には寄り付いては来なくなっていることを、俳人は知らねばならない時がきているように思うのは私だけではないのだろう。俳句の表現方法が上手だとか、下手とか、そのように思える時期は、もう古い。作者個々人の生き方が見えていなければ読者はついてはこない。いま俳句が停滞して、若者が受け入れてくれないのは、句そのものには全く魅力を感じないからである。若者はその句の真剣に生きている、或いは生きてきた本物の心を望んでいる。それには作者そのものの「私」が句に表現されていなければその句を読者は受け付けてくれない。勿論読むことなどしてはくれないだろう。…俳句は私性の文体と言われる所以である。 

 俳句には思想が込められていて、そこには個々人の生き方が存在する。若者はその生き方の良い部分を個人に引き付けて取り入れるもの。かっての「青玄」青春俳句が…そうであった。

 昭和43年4月28日。全国から若者が京都に集結された。新人サークルの全国大会であった。当時の国鉄京都駅前には胸にプラカードをつけた俳句集団が闊歩し、道行く人の目を驚かせた。胸にまといついた俳句スローガンを世間へ見せつけたのだ。「俳句現代派・青玄」2メートル程もある横断幕に書き込まれた言葉に、道行く人は唖然とした。「今日までの俳句を古流と呼ぶ」…横断幕に書かれたスローガンは道行く人を吃驚させた。若者の胸より吊るされたゼッケンの言葉はその大半は伊丹三樹彦の青玄前記である。当時の国鉄京都駅前でのビラ配りを若者は必死で行なった。これまで俳句を市民に直接呼びかける俳句団体はなかった。このようなアピールはしなかった。俳句現代派と市民が一体感になった日でもある。そのとき私は俳句の大革命だ思った。俳壇は恐るべき新人たちの革命に恐れをなし始めようとしていた。(青玄206号の表紙裏に写真掲載)伊丹三樹彦先生の純粋な俳句姿勢は当時の若者たちの心を揺り動かしたのだ。やがて俳壇に驚異的な存在となってゆく。総合誌や結社誌への青玄青春俳句の新人俳人のコラム欄が増えていった。その流れは氷見市の小・中学生俳人の特集を青玄誌上(青玄189号)で組むまでに至り、NHKテレビ水曜番組「あすは君たちのもの」(昭和43年5月15日放送)出演となる。このころ三樹彦は総合誌「俳句研究」や「俳句」に句を発表し既成の俳壇と闘っていた。批判的リアリズム論は人気とりだとか、ワカチガキ俳句は穴ぼこ俳句だとか誹謗の真っただ中にいた。このとき青玄の青年俳人たちは怯むこともなかった。現代派俳人伊丹三樹彦の思考を信じ新しさへの挑戦を続けたのである。恐れられただけにまた中傷もひどかったのではないかと思う。

 いまこれらの一連の動きを詳細に記述したが、この若者たちの根底には個々人の若者の生き方の主張があったのだ。次のそれぞれの句を見ていただきたい。

   戦争ははじまりませんよ 手籠にねぎ  中永公子 

   ラ・タラッと階段 雪の青年待ってます 坂口芙民子

   唇吸われるも孤独 石階の白い傾斜   山下幸美

   嫉妬が黙らす コーヒーカップの底の白 諧 弘子

   恋ふたつ レモンはうまく切れません  松本恭子

   春の宵は黒いビロード 母と腕組む   穂積隆文

   朝は思考研ぎにだ 便器に座りに行く  児島庸晃(照夫)

これらの俳句には時代を背負った思想が力強くある。ここには日々を生きる生き抜くための時代の感覚が鋭く発信されていた。まだこの頃は(昭和40年前後)俳句には自然諷詠が主体であった頃、個人の生き方にまで左右する動きは俳壇全体としてはなかった。日々の生活の中における感情を若者は大切にしたかったのだ。それが伊丹三樹彦の俳句革命であった。現代語感覚が俳句の表現には必要との思考に同意する若者が沢山増えていったのである。生活俳句の実践であった。

 何故、最近の俳句が、昭和40年前後に逆戻りしてしまっているのか。表現された俳句が個人個人の感覚感情から離れていってしまったのだろうか。俳句に「私」の感情が入らなくなったのか。作られた俳句だが、今の句は何故に私の感覚感情が抜けてしまったのだろう。自然諷詠に戻ってしまったのだろう。俳句は私性の文体でなければ若者は俳句から離れてゆく。いまこそ生活俳句への回帰がいるのではないか。伊丹三樹彦は昭和32年から、その改革へと実践した俳人である。その頃多くの若者が伊丹三樹彦主宰の「青玄」に集まってきた理由である。