ヌーベルバーグ時代の俳句…ふたたび

                                           俳句を詠むに意味で読まないこと

                   児 島 庸 晃

    目視して物を受け取る時、その感覚は意味で受け取っているのではなかろうか、と思う時がある。それらは頭で判断していると思われているのだろうか。だが、実際は情感で物を見ているのである。俳句が意味の句の表現になってしまうのは、その意味が頭の中に残ってしまっているからである。俳句は情感の支えがしっかりしていなければ、ただの言葉でしかなくなる。俳句は意味で作ってはならないのである。俳句が説明になってしまう理由でもある。私の二〇代初めの頃、映画の世界にヌーベルバーグ(新しい波)と言う新しい表現の実感直感のフランス映画が、日本の若者の心を捉えていた。その代表的映画は、「勝手にしやがれ」。ジャン=リュック・ゴダール監督。ジャン=ポール・ベルモンド主演。その映画とは町の中をただひたすらに歩いて行くだけのもの。ベルモンド主演の演じたものとは退廃的表情の青年を、主演の顔の表情やその動きからだけで上映時間二時間を演じきったものだった。ここには映画の中における意味的表現は何処にもなかった。視覚より受け取る情感をとても強く受け取るものだった。これは意味など若者には何の役にたたないもの。理屈や観念などは生活するのにはいらないもの。この映画が若者に受けた理由は実感と言う心への直情だった。このとき現代俳句界へ新しい改革をしようと踏み出した俳人がいた。伊丹三樹彦である。一九六〇年代、俳句は、まだ伝統俳句より抜けきってはいなかった。その頃、従来の伝統より生活実感俳句へと句の思考を切り替え実践実行へと踏み出したのであった。日野草城より受け継いだ俳誌「青玄」をその時代のものへと変革しようと動いたのであった。「青玄」120号頃の時代である。因みに私の「青玄」入会は102号だった。この当時、俳句結社「青玄」には高校生俳人は、私を含めて三人しかいなかった。その一人に荒池利治がいる。

           空でまかれ蝶となるビラ労働祭   荒池利治

    まだ分ち書きは行われていない頃である。当時、詩語を柔らかく語れる人はいなかった。この作者は私と同じ高校で、文芸部の仲間でもある。「青玄」新人賞候補になるのだが、その後一年ほどで句を作らなくなる。後年三十年程して「青玄」に復帰、新人賞を受ける。またインターネット句会「青鷹」の主宰者でもあった人。当時、この「労働祭」の句のような世界にこのような柔らかい直情を詩情に変革させる俳人はいなかった。何よりも若者の心を柔らかな直情で語りかける俳人はいなかった。主幹伊丹三樹彦はこの句を真っ先に認め、当時の微風集蘭の推薦句として推挙、同人の多くの賛同を受ける。以後若者が「青玄」に入会してゆくきっかけになってゆく句でもあった。

           恋人たちへレモンのような街灯照り  荒池利治

この句の清らかで美しい心の表現は、当時の若人の心を一変させたのであった。この句の発表は、最初は若人の研究誌、鈴木石夫代表の「歯車」だった。その時の人気が全国の若者に伝わってゆく。総合誌「俳句」にて紹介され、この時、「青玄」の俳誌も加わって全国へその存在が伝わる。同時に私の次の句も紹介されることになったのであった。

        灼熱の街 僕の胸裏の檸檬磨く  児島照夫(庸晃)

この句の紹介は確か俳誌「渦」主催の赤尾兜子であったように思う。その記事の記載された誌は何号だったか忘れたが、そこに書かれていた言葉は記憶にある。…青年の必死に生きてゆこうとする生き様が、燃え尽きるような灼熱の街の中に見えてくる、と。夏の俳句として紹介されていた。

    ここまで書いてきて思うことは、若者には共通の希求した心があった。当時の青年男女には理屈や観念に通じる心はいらなかったのである。生活実感から生まれる情緒であったのだ。何故とか、どうしてなのか、などの思考はいらなかったのである。つまり意味などの思考はいらないのである。生活実感から発生する直情が、美しい詩情として、個々人に呼びかけてくる詩語としての一句なのである。意味などではなかった。このことをいち早く認知したのが、「青玄」主幹伊丹三樹彦であった。以後次々と若い俳人が生まれてゆく。だが、若者が活況を呈してゆくのは、この時より6年も経てからであった。この6年と言うのは内外ともに激しい厳しい抵抗との対決であった。まだ日野草城時代からの無鑑査同人が頑張っていて大変な出来事の連続であった。桂信子、小田武雄、林薫子、河野閑子、弓削鴻、清水昇子、安川貞夫、兵頭幸久、多賀九江路、藤本春緒と、それに連なる各支部の人たちとの摩擦を、私は何回も見て来た。特に外部との摩擦では山口誓子の「穴ぼこ俳句論」には深刻な日々であった。分ち書きを批判されてのものだが、一歩も引きさがらなかった根性と勇気にその真剣さを私は真剣に考えた。…これらの時を経て活況を呈してくるのは、この時期より6年程してからである。若者たちは伊丹三樹彦のもとへ集まって来るのだった。新里純男、諧(かのう)弘子、鈴木明、坂口芙民子、上野敬一、門田泰彦、穂積隆文、澤好摩、伊丹啓子、中永公子、松本恭子。数えればきりがないほど多い。ざっと数えても百人近くいる。そして特筆すべきことがある。主幹伊丹三樹彦のしたのは俳句のテクニックを一切教えなかった。このことについて私は主幹に聞いたことがある。すると作者本人の個性が失われるから、との返事。いま私が思うにその三樹彦先生は殆ど俳句の話はされなかった。毎日の生活の中における喜怒哀楽についての部分がその俳人を成しているとも言われていた。傍にいるだけで心が温かくなる事が多かった。真剣に若者の考えを聞き入れて下さる俳人だった。

    ここで当時の俳句を紹介したいのだが実に幅の広い感覚のものであったように思う。

        一秒おしみの恋人 海へ向くチャペル       鈴木 明

        恋の略綬の木彫りブローチ 九月の森       鈴木 明

           薄暮の椅子に風船結んで 去った恋人       鈴木 明

           猫背に去る若者 前方を射ちつくし        門田泰彦

         水洗便所快調 失うものなくて          門田泰彦 

            チュウ太と名付け その鼠穴に罠仕掛ける  門田泰彦 

            喋らねば孤独 鸚鵡百色着て             門田泰彦  

            灯が凍結して 誰かが泣くガラスの町      新里純男  

          ねむい春日の触手肺から腐る僕        新里純男

             空気銃とお化けの記憶 森黄ばむ      新里純男 

             しびれだす正座 生きるを思案してる刻   児島照夫(庸晃)

             ビルの谷間で赤茶ける恋 ぼくのトーン   児島照夫(庸晃)

             川へ怒りなげてしまって 手を垂らして   児島照夫(庸晃) 

             春風狩りに 夫も大きいてのひら 下げ   諧 弘子

           死んでごらんと 節穴が光の剣呉れた   諧 弘子 

           老母に長い重い前掛け 冬日の坂     諧 弘子 

              このまま眠れば多摩川心中 犬ふぐり   諧 弘子 

              大きくなって御免 母を待つ落葉の坂   穂積隆文

            遠吠えだな 夢を語れば腹減るな    穂積隆文 

            尾を曳く万の流燈 広島 川から冷え     上野敬一

            呪文のような冷風ロビーに眠る商人   上野敬一

            コンクリートエコーのシュプレヒコール温い舌 伊丹啓子

 

上記の句は1960年より1974年位までの、所謂ヌーベルバーグと言われる時代の俳句である、このヌーベルバーグの時代はフランスの映画に始まり、日本でも松竹系の監督により一時の話題を呼んだ。大島渚篠田正浩など、また舞台では歌人寺山修司主宰の劇団「天井桟敷」の直感主義として存在していた。このころの俳句の新しい波が俳誌「青玄」主幹の伊丹三樹彦によって進められていたのである。