正述心緒は俳句ではなくて散文です

                   あなたの俳句が正述心緒になってはいませんか

                 児 島 庸 晃

    あなたが俳句の形式を選択したのであれば、全ての作品を俳句で書きましょう。最近目立って顕著になってきたのが、俳句を作っているあなたが、俳句作品ではなくなっていること。観念思考が先行して、意味だけが重要視され、説明言葉になっていて散文になってはいませんか。…これを正述心緒と言う。俳句は意味や観念から入ってはならない。あくまでも目視からの思考なのです。ところが面白い句を求め、思考だけが目立つ刺激的な印象の強い句が、俳句だと思い込んでいる俳人が増えてきている危惧を、私は強く思っているのですが…。もう一度俳句の基本に心を戻し寄物陳思にその思いを託さなければならない。私的思考を優先させるのであれば全てを散文のスタイルで表現すればいいので何も十七音の詩形で書かなくてもいいのではないか。小説やエッセイで表現すればいいのではないかとも私は思う昨今である。でも何故俳句が形式として存在しているのか。それは十七音表現であると言う持ち味があるから。その持ち味とは短文であるからこその出来る、そこに含まれる緊張感や緊迫感の強さが真実の本物感を醸し出すから。俳句言葉には表現された言葉以外の多くの削り落とされた言葉がある。十七音から弾き出された言葉を読者は想像することになる。このとき緊張感が生まれる。ではどのような作品がそれに類するのか。

   しゃぼん玉嘘つく時も同じ息    GONZA 

津野ネット句会より この句はインターネットでの句で句会を開いてのものではない。この句では「膨らます」の言葉が省略されている。この句で大切なのは俳句言葉が説明言葉にはなっていないこと。その言葉とは、「膨らます」。だが、十七音の俳句表現言葉としては文字になっていないのである。つまり十七音から削り落された言葉なのである。この句を見ていて、 読者が想像する言葉なのである。この一瞬の僅かな中に読者は引き込まれる、その瞬間の緊張心が読者の心を満たすのである。つまり「膨らます」と言う言葉は俳句言葉として十七音の中に存在してはいないが、この句を目にした読み手は「膨らます」イメージを思ってしまうので、どんどんイメージが広がり、ここに考えてもいなかった心の広がりが生まれるのである。ではこの「膨らます」を十七音言葉にして表記すれば、どうなるのだろうかとも思うのだが、この句を読んだ時にはよく理解できるのだが、五分もしないで脳中から消えてなくなり、そのあとには何も残らないのである。読者に想像させることの大切さがいるのである。言い方をかえれば正述心緒になってしまっているのである。言葉が砕けていて一過性の刺激でしかないので、その後は心には残っていないのである。言葉そのものが、俳句表現の心の在りようとしての散文になってしまっているのである。この句から生み出される緊迫感・緊張感が、ここにはないのである。それは説明言葉になってしまうからである。俳句は俳句言葉を説明の意味言葉にして表現してはならないのである。読者の心の中で言葉の緊張感が広がらなくなるのである。

   遠く病めば銀河は長し清瀬村    石田波郷 

句集『惜命』(昭和二五年)より。この句は清瀬村での療養所生活で生まれた句である。清瀬村とは東京北多摩の奥地である。波郷は結核治療のため、この地で大切な生活の殆どをすごしているのである。この句では十七音よりはみ出し表現されてはいない言葉。表現上には出ていない言葉がある。それは「遠く病めば」の表現言葉の裏にあり、奥に秘められた言葉としてある「日常から」或いは「世間から」の言葉。「遠く」の俳句言葉の奥に秘められた作者の孤独感が、我々俳人にはひしひしと迫ってくるのである。ここに「日常から」或いは「世間から」の言葉を十七音の俳句言葉に出してしまうと、それは正述心緒になり、説明言葉になってしまうのである。わかりやすい言葉でいえば意味を説明しまっているのである。ここまで言いきってしまえば散文の世界へと踏み込んでしまうことになり、俳句としての抒情が失せてしまうのである。表現上に出ていない言葉…「日常から」或いは「世間から」は…読者が想像する言葉なのである。この言葉は「銀河は長し」を目視して得た波郷の心より生まれた言葉そのものもので「日常から」或いは「世間から」の想像を呼び出しているのである。このように十七音表現からはみ出している言葉の存在を見つける楽しみ、ここに短文であるからこその俳句の深みが読者の緊張感を強めている。

   震度4 書棚に文字がしがみつく   政成一行

俳誌「青群」55号より。この句で十七音からはみ出している言葉は何なのだろうと思っていると、この句の面白さが、私に緊張感を呼び出していた。「文字がしがみつく」の裏に、或いは奥に隠れている言葉。それは「必死に」または」懸命に」のイメージアップであった。この「必死に」または」懸命に」を俳句の一行として十七音上に俳句言葉としていたら、と私は思ってみたのだが、やっぱり言葉そのものが説明になってしまい散文になるのではと私は思うのである。これそのものが正述心緒である。言葉が意味になり、それは解説言葉なのである。ここには心の緊張感は生まれてはこない。ただ一行の文章になってしまう。俳句は詩である。ならば抒情が心へどのように溶け込み広がってゆくのか、十七音からはみ出した言葉の存在を読み手は素早く感じとるこそ大切なのだろう。この部分に読み手は緊張感を覚えるのだろうと私は思った。

   姉の歩に合わす一日星合う夜    福島靖子

俳誌「歯車」336号より。この句は特に目立った俳句言葉はどこにもない。…であればどこが面白いのだろうと思うであろうが、俳句の面白さは俳句言葉が際立って目立つことではない。十七音からはみ出し、弾き出された部分の言葉こそが大切なのである。その言葉とは「遅速の姉」。この言葉は十七音としての俳句言葉としては表現されてはいない。十七音として表現された言葉「姉の歩に合わす」の奥に秘められている言葉なのである。読み手は「姉の歩に合わす」の言葉より感じとるときに出てくる感覚としての心への読み込みの言葉なのである。…これを詩を感じとるとも言い抒情があるのだとも言う。俳句を成すときの最も大切な約束事でもある。そして作者は「星合う夜」の俳句言葉より七夕夜の姉と妹のふたりの結びつきを「星合う夜」に強く感じる緊張感を身近なものへと呼び込んでいるのだろうと私は思った。ここには説明言葉は表現されていないのである。たった一行の織り成す言葉である。その中から表現されていない言葉にこそ抒情が隠されている。その言葉が想像出来る言語が一行の十七音に含まれることこそ大切なのである。一句を完成させるときに表現されてはいない言葉の存在を知ること、それを感じとれる表現こそが、俳句であり、詩なのである。ここには言葉が説明される使い方はない。

   遺品あり岩波文庫阿部一族」   鈴木六林男

句集「荒天」(昭和二四年)より。この句の「遺品」とは何を意味しているのだろうか。普通は亡くなった人が遺したものなのだが、この句の場合は戦場の兵士が遺したものを示している。従って十七音として表現されてはいない言葉に「兵士の」と入る言葉があるのである。だがこの「兵士の」の言葉を一行に組み入れると散文になってしまうのである。何故なのかとも思う。「兵士の」の言葉が意味を示す説明言葉になるからである。大切な俳句言葉が説明文になってしまってはならない。読み手に想像させるイメージを提起させねばならないので、いつも表示されるその言葉の裏に、或いはその奥には大切な言葉が隠されているのである。その部分を読み手は感覚として悟らなければならないのである。その心には緊張感や差し迫る緊迫感が常に生じる。この部分に詩が現れ抒情が生じるものである。俳句は読み手を必要とし、作り手の主張だけが堂々と大手を振ってまかり通る文芸ではない。ここが散文とは区別されているのである。正述心緒になってしまっては俳句の性質を壊すことになり、句自身の深まりを損なうことになる理由である。そしてこの当時一番よく読まれていた「岩波文庫」なのであり、心を一杯に広げて緊張寒を盛り上げているのだが、ここにも省略され、十七音に表現されてはいない言葉がある。「愛用書」の何時も戦場でお守りのように携帯していた必需品の存在。読み手は想像を広げてイメージする。「岩波文庫」には表言葉と裏言葉があり、「愛用書」は裏言葉なのである。この表裏一体の言葉より心に緊張を取り込むのである。このように俳句には表裏一体の言葉があり、常に一行に表現されてはいない言葉の存在を想像して句自身に本物感の凄さを感じさせているのである。俳句が詩であるための条件は説明言葉にならないこと。

 正述心緒とは何なのかを私は検証し、そしてそこに至る過程に俳句そのものが説明言葉になっていることの多さを知る。なんとその数の多いことよ。これはそれぞれの句会の場で高点句を得ようとするためであることが、いまの一つの流れなのかとも私は思った。だが、俳句は散文ではない。正述心緒ではない。説明言葉になってはならない。読み手は、十七音の中に表現されている言葉の裏や奥に多くの言葉が隠されているこを感じなければならない。俳句には表現され表示される表言葉と、表現表示されない、削り落とされた裏言葉とある。この表言葉と裏言葉の引き合わせの緊張感より出来ている。それらの言葉は吟味された言葉であり。俳句の一行から削り落とされた言葉でもあるこを想像しなければならない。ここに俳句としての緊張感の本質がある。