光りと影のツイン

           伊丹三樹彦写俳展…おおオージー

               児 島 庸 晃

平成元年「青玄」430号(12月号)掲載の私の文章より…忘れじの文章としてここに採録いたしました。読んでいただければ幸いです。(2008年12月16日記述)

 

 クリエイティブ俳句、クリエイティブ表現、クリエイティブ思考クリエイティブフォト…と何回も頭の中を言葉がめぐってゆく。これはごく自然のことだった。作家の思想をくりかえしくりかえし広げてゆくものはマスメディアの中にこそある。この写俳展はたしかに指導的思考なのだ。平成元年十月一日~七日の一週間、大阪ニコンサロンで行われたた「おおオージー」を見ての感想は、“まさにクリエイティブ”へという心。最初にぼくを迎えてくれたのは静岡帰りの三樹彦そっくりのミニチュア人形である。一瞬目を見張った。よく出来たもので首からはミニカメラをぶら下げ…というように暖かい出迎えにはこころ和む思いであった。だが、このミニチュア人形の後方には五十点もの写俳展示があって、ぼくの心は緊張そのものだった。それは作品そのものが光と影のツインだったからだ。オーストラリアの心を見た思いであった。オーストラリアの地図は南が上で北半球と南半球の位置関係が逆である。日本の地図位置も上で、ぼくたちが日本で見る地図位置とは反対である。ここに逆転発想の原典がある、とパネルに書かれた作家の意思表示に改めて“クリエイティブ”への思いを強めた。

 作家個々の思考は、常にクリエイティブでなければ、その表現において迫力のないものになってしまう。しかもそれが写真という映像によるものであった場合は、もっともビジュアルな訴えは見るものに何も残さない印象の薄いものであってはならないのだ。そのように思えたのはいくらもあったが、圧巻は会場の右端隅に展示された作品「翼なきものには柵が 大断崖」である。ほとんどモノクロに近い映像であって、僅かに波の一部分にうすい青がきらめく。それもあるかないかのかすかな青である。この波以外の部分はダークのハーフトーンの階調をなしていて、作家が何を訴えようとしているのかが、誰にだってわかる。ここには影の部分が、それも単純に影と言うものではなく、影の部分にも感情があることがわかる。この大断崖の上下のわずかなすきまに一羽の鳥が立っている。まさに翼がなければ住むことの出来ない空間の極限状態である。本来はこの鳥になんらかの色があったのかもしれないが崖によって影にされてしまった鳥である。ここにはオーストラリアの影がある。波にかかるわずかな青はオーストラリアの光である。ゼラチン処理などによるはっきりとした青を出すテクニックによらず、青を自然光のままにして表現したのは作家の魂であったと思う。作意によらない純粋性といったものであろう。

 被写体を映像に収める場合、ホライゾン(水平線)の位置がおおかたの画面構成をなすものだが、「おおオージー」の作品群のなかには重要な位置がはっきりと示されていたように思われる。視線というものは訴えたい一番重要な部分を固める。固めた上でなお訴求しつづけるのである。この点で目をとめたのは「的として父立つ 球技の芝の上」であった。父の目を画面の上の方に位置させ、子供の目から見ればやや見あげるといった位置にカメラのレンズを据え、撮影者自身が子供の目の位置にまで身を屈め、レンズを上の方に向けてとらえている。これは子供の心と同一化した撮影者、三樹彦自身の心をクリエイティブさせていることである。しかも明るい芝の上に父の影の部分が重なっている。それも子供が見あげるようにとらえた視線の位置にあるホリゾンは子供から尊敬され、たよれる父として…。現実の状況としての立体を、撮影された平面に置くとき作家の目の位置は、そのままホリゾンの位置でもあって、もっとも注目される強調される部分である。子供の目の位置から見た父の目の位置を印画紙平面のやや上に位置させて注目させる作家の主張はあたたかな感情さえ感じられるのである。このようにホリゾンひとつをとってみても作家の思考いかんによっては、思想・意志まで表現できると言うすばらしさを見た。この見えていない部分までの感情表現のすばらしさは随所に見られたがぼくが感動したのは「大好きな父の帽子の匂い 被る」であった。父の帽子を被っているその子の顔は、あまりに大きくて深い帽子のために目も鼻も見えない。顔のほとんどが見えないのである。このおもしろさ、おかしさは圧巻。この子供と父の帽子との接点は「父の匂い」であって、この子供の感情は見るものにはほのぼのとしたものを与える。「匂い」という言葉を映像に変え、感情に変えたエネルギーに感動した。

 ぼくはこのところ毎日、広告の仕事に携わりアートディレクターとしての目で写真を見る機会が多いわけであるが、プロの写真家に接するとき、いつも純粋さが失われてゆくのである。その中でいつも思うことはマスメディアのもつ非情さである。表現したいものが何であれ、好き嫌いがはっきりしていて良い悪いの判断が即座に出てしまう。そんななかにあってこのたびの三樹彦写俳展は自己表現に強烈な純粋さを見る思いであった。或いは純粋であるがゆえの滑稽さや温かさは俳人の目でのフォトなのだとも思えた。これは写真家では表現出来てはいないだろうと私は思った。それは随所にあって親しみのようなものまで感じる。たとえば「落書き天使にされちゃったんだ パパの ママの」は子供の顔が画面全体にあって、その顔全体にハート模様が書かれている。俳人としての三樹彦はパパやママの愛情の現われとしておもちゃのようにされてしまった子供の顔のユーモアをシンボライズして見せる。顔全体に当たる光とそこにある色とりどりのおかしさや親しみ。それらは、「パパの ママの」という言葉によって、あるいは俳句によって一層の訴求効果を上げている。おそらくこの俳句がなければ理解されていないかもしれないのだ。しかも三樹彦写真の注目点は子供の顔の位置まで目を下げて、ホリゾンを中心に置く。そのことによって四方へと顔に当たっている光が拡散さえてゆく幸福感にひたれるのだ。作者が何を、どのように、何故、いま、語りかけなければいけないか。それはこの写俳展を見れば一目でわかる。それは生活の面においても精神面においても、常に光と影はきってもきれない関係にあっていろんな詩心を語りかけてくれるからなのだ。ぼくはこの写俳展を見て、作者の語りかけてくるエネルギーと語りかけなければならない温かさのようなものを見る思いであった。それらは伊丹三樹彦と言う俳人の目視による本来の純粋性であった。写真家の目ではなく全ては写俳人として目視の目でもある。