俳句は可視と不可視の間に成立する(再掲載)

       …心はいつも心眼… (ご要望が多かったので再掲載)

                  児 島 庸 晃

 俳句は生きている実感、そしてその真実を如何にして記録してゆけるものなのか。俳句は可視の世界の現象だけではなく、不可視の世界に現れる心の変化を取り入れる必要があったのかも。心の中だけで出会う現象を記録してゆくことの大切さがあったのかもしれない。

  …ここに一俳人の文章を紹介したい。

氷雨の東京駅に、上京した「歯車」誌の仲間、永井陽子を送ったことがあった。近づく成人式に、「出席しない、振袖を着ない」と二人で約束し新幹線の窓に手を振った。あれから四十年余り。歯車同期の卯年の女三人、論客で歌人として「噛みつきうさぎ」の異名を持った陽子は詩に殉じ、鳥取の繊細な妙子は詩に病み、才無き私だけが俗っぽくも孫を抱き、拙い詩を紡ぎ続けている。 

 生と死を見つめ生き続ける俳人の切羽詰まったドキュメントである。この一篇の短編小説の書き出しを思い出させる萩澤克子の文章。実に見事な文章である。この文章は克子句集『母系の眉』での覚書だが、これは小説家ではなく、俳人の文章なのである。よく聞かれる言葉に俳句は短編小説でもある、と言う。俳人でもあり、小説家でもあると言う文人はたくさんいる。だが、俳人には俳人特有のものがあり、小説家では書けない世界がある。正に萩澤克子の文章は俳人でしか書けない文章なのであろうか。俳句独特の不可視の目があり、心の傷を癒す俳句を体験しているのである。

   やがて風となる少年の視野にいる  萩澤克子

句集『母系の眉』より。「歯車」に入会して俳句を投句していた頃の句である。私もこの句に心惹かれた思いがある。高校生の頃ではなかったかと思うが、ここには、既に少女趣味的なものはなく、可視・不可視の原点があったのでは…そのようにも思える。見ているものの視野には少年がいるのだが、ただ単に見る眼(可視)ではない。少女に成りきれている作者、克子がいる。見える眼(不可視)の世界である。克子の理想の想像を少年に見つけている。この風景は現実にはありえない、が克子には見えているのだ。つまり見える目になっている。不可視の心である。

 その克子は高校時代より鈴木石夫の指導を受けた俳人でもあった。その鈴木石夫こそが、俳句独特の可視と不可視の目と心を持った俳人であったように思う。

 ここで…私の思うことだが、俳句は可視と不可視の間を行き来することにより、作者自身が、いままで見たことも思ったこともない環境を持つのではないかとも…と考えてしまう。

  • 可視→見る眼。
  • 不可視→見える眼。  

宗教言葉だが、対治は体の傷。同治は心の傷。この心の傷を癒してゆくものを、不可視…見える眼…に見つけているのではなかろうかと思えるようになった。俳人の文章は、小説家の文章とは根本的に異なる。小説は散文の文体であるが、この不可視の心を十七音にまとめたものが俳句ではないかとも…。この不可視の世界こそが他の文芸ジャンルとは異なり俳句の世界だけには存在する。     

 このことを顕著に感じたのは次の句であった。

   大寒や三途の河に橋はあるのか  鈴木石夫  

ここには不可視の世界がある。不可視でありながらもその現実が鈴木石夫の目には見えているのだ。この世では体験しえない現実を「三途の河に橋はあるのか」と語りかける言葉こそが石夫の心には…見える眼になっている。石夫の目に映った現実風景なのだ。

 では、見る目とは何なのか。見える目とは何なのか。…見る目とは太陽光が当たり輝いている部分である。そして見える目とは、太陽光の当たらない影になる部分。実際は見えない部分なのだが、作者となる俳人その個人には見えている部分なのである。

 絵画や写真は、この可視と不可視の現象を巧みに組み合わせ一枚のものにするのである。そして実際には影になって隠されている部分を、作者の心で感知した感覚として、その形を見せているのである。一方、その形を言葉で示し見せるのが俳句なのだ。その両方を相乗作用の効果に導いてゆくのが、写俳である。その写俳の創始者は伊丹三樹彦であった。そのこころは心眼指と言う。最近出版した写俳集『ガンガの沐浴』の中での言葉。写真撮影でのシャッターを押すときの指の心得だが、俳句の視野においては眼心そのものなのであろう。

   鎌鼬 漢字でなけりや凄味がない  鈴木石夫

この句、可視の部分言葉は「鎌鼬」だけである。石夫の目は鎌鼬を見ているのだが、具体的な状況や様子は、言葉としてはない。と言うよりは必要がないのだ。上五音の部分から可視…見る眼ではなく、即、現実には見えてはいない不可視の部分が…見える眼になる。石夫の感覚として「その凄味」が言葉になって見えている。太陽光線に照り輝いている表面ではない。むしろ影になる部分にまで鎌鼬の生態を見ては心する。…それそのものが眼心なのである。この句の特異性は、可視の俳句ではなく、不可視の中における見えない部分を見えるものとして形にすることであったのではないかと、私には思える俳句であった。

   かまきりの孤高は午後の風の中  鈴木石夫

ただ単に漠然とかまきりを見ているのだが、石夫にだけ見えてくるものがある。あのかまきりの勇ましい鎌のような手とも思える姿に、一瞬、静かな動きを見てしまったのだ。かまきりの動くたびに寂しさを見ている、その一瞬一瞬に孤高を感じる。これは、一般人には見えてはいない部分である。つまり不可視の部分。だが、石夫は見えている心になって、情感を沸き立たせ、午後の風の中へと引き込み癒して慰める。心の回復をさせているのである。この句は不可視の部分に見える目を持つことで定着し俳句になったのである。…眼心とは俳句の世界にだけ存在するものであるのだろう。眼心指とは俳人三樹彦の写俳の世界でのものだが、現代人が俳句を作るときの心得として大切である。その心はいつも眼心。

 鈴木石夫の可視 不可視の世界は、どのように受け渡されているのだろうか。すこし考えてみたい。

   骨までか骨からなのか曼珠沙華   前田 弘

現在の「歯車」代表の平成19年の作品である。一般人には見えてはいない曼珠沙華の影の部分が、この句には見えている。前田代表には、当然のようにあたりまえに目の中にはあるのだ。「骨までか骨からなのか」とまで語らせるその心はなになのだろうか。見ているのは曼珠沙華の可視の花の部分なのかもしれないが、見えているのは、枯れかけた茎の全身なのだ。ここから曼珠沙華の毎日の闘いが始まるのだろうと呼びかける声が聞こえてくる。枯れかけた茎は骨。擬人化されて曼珠沙華は人体へと見えてくる。前田弘にだけ見えているのだ。不可視の部分は前田弘にだけ存在する現実風景なのだ。

   春愁やきっと交わる平行線  大久保史彦

「歯車」編集に全力で取り組む大久保史彦だが、その俳句には、時に魂の眼心を魅せることがある。この句、平成21年五月号「歯車」より抜粋。凡人では、平行線を見ていても、何処まで伸びて行っても、言葉の言語通りに平行である。だが、文彦には見えているのである。見ているのではないのだ。即ち可視の世界にいるのだが、不可視の現実が見えているのだ。時間が経てば、平行線ではなくなることを信じつつ、それも、春の愁いが、こんなに燦々とあるのだから…と。文彦の胸中には、人間同士のお互いが理解し合えない心の平行線があったのかもしれない。

 俳句で感動を得るとはどう言うものなのか考えてしまっていた。俳句を記録し残してゆくことは、日々の現象だけを克明に写実しても誰も感動しなくなっているのではないかと、私自身は思えるようになった。可視の世界の現象だけでは物足りなくなり、、不可視の世界に現れる心の変化を取り入れる必要があったのかも。見えていないものまで、見えるように写実するとは、昭和38年頃、現代俳句の革命のように、研究、実作が行われていたが、いまその必要が迫られているようにも思うのは、私だけではないように思う。この運動が、やがては前衛俳句へと発展し、その心の改革が本格俳句を生むきっかけになったのである。

 鈴木石夫が、俳誌「歯車」に残して頂いた可視より不可視を覗き、その不可視の現象に、本来の人間の心を見つめる姿勢を、私たちは忘れてはならない。その心は何時も心眼。これは現代俳句を革新へと牽引してゆく伊丹三樹彦も同じである。既にこの心眼は石夫も三樹彦も、昭和38年頃には実践されていたのではないかとも思われる。このふたりの師に巡り合えたことに私は感謝しいる。