その思考は俳人個々の思いを表現と言う形で……

            俳句には表言葉と裏言葉がある
                児 島 庸 晃         
 句集「黄砂」拝受。ありがたく感謝の気持ちをこめて読ませて頂きました。一句集にするまでの、纏め上げる苦心、苦労の果てに出来上がったであろう一冊を思うと、私の心も緊張してしまいました。何よりもその一句一句は三保子さんの心を存分に尽くした句であろうと私は思って、できるだけ丁寧に読みたいと思ってしまったからです。
 「私」の存在の必要性が、一句の中に色濃く滲み出ている詩情をとても強く感じました。詩情といっても、実に具体的に、克明に表現されていて、それぞれが三保子さんそのもの姿として一句一句の中に表示されているのではないかと…。次の句にはそのことがよくわかりました。
   花合歓やわが魂を提げておく   宮川三保子
   身の内の芯までゆるむ春の雨   宮川三保子
この二句には観念語は含まれていませんよね。物事を受け止めるのに観念で進めてはいませんですよ。それは俳句で最も大切な寄物陳思の心の意味をご存じだからなのだろうと私は思いました。俳句言葉そのものが意味言葉であってはならないことを熟知しておられれるからできることのようにも私は思いました。昨今の俳句を見ていると、俳句言葉と言うよりも意味を表現しようとして言葉そのものが説明言葉になっているようにも私は思っているのですが、三保子さんの句を見ていて俳句の本心の大切さが、とても深く保持しておられるだろうと…。そして詩としての俳句の進むべき方法の道を、三保子さんの一句一句から教えて頂きました。
 俳句は何時も新鮮でなければならないのですが、その思考は俳人個々の思いを表現と言う形でしか表示されません。いま、俳人は言葉その一つ一つを目立つものにしようとして、コピー化しようとしています。広告で見出しに使うキャッチコピーに類似したものを俳句言葉にする人が多くなっています。より刺激の強いもの、目立つものへと転化しています。だが、キャッチコピーには緊張感や本物感がありません。いま、三保子さんの一句一句を拝見していて、キャッチコピーにはなってはいないことに安心しました。否、それどころか、三保子さんのお心の強さの一つ一つが真実の本物感を醸し出す形に私は安心しました。その句は次の二句です。 
   丹頂は詩屑散らして飛んで行く   宮川三保子
   去年今年紐のようなる一行詩    宮川三保子
表現された俳句言葉は、表言葉として表示されます。俳句言葉には多くの削り落とされた言葉があり、これは裏言葉。俳句はこの、表言葉と、裏言葉があって成立しています。右の二句には、それぞれ表言葉と、裏言葉が含まれています。「丹頂」の句の表言葉は「詩屑散らして」。裏言葉は表現されてはいない言葉としての「詩屑散らさぬ」。また、「去年今年」の句の表言葉は「紐のようなる」。裏言葉は表現されてはいない言葉としての「紐のようでない」。この表言葉と裏言葉の引き合わせにより緊張感が生まれるのだろうと私は思いました。
 そして私が興味をもって最も魅かれた句が、
   背中から春の時雨に溶けてゆく   宮川三保子 
でした。日頃から「歯車」誌上を拝見していて思っていた三保子さんらしい心の表れている真実感が籠っている句だと思っています。
 ほんの少しですが思ったこと述べさせていただきました。勝手に書きましたので心に触れることがありましたらお許し下さい。常に明日への心として俳句へ邁進する三保子さんを私は敬服しています。