素直に感動出来る心をいつも保持しているのか?

             人心とは……俳句人生の全てに……
                 児 島 庸 晃
 最近になってのことだが人生の蓄積など何処へ行ってしまったのだろうと思うことがある。…殊に俳句においてはこの人生の蓄積が重要に思えるときがある。ただ何の変哲もない風景でも見事にその人独自の風景を描き出す。潜在意識を健在意識に高めて俳句鑑賞者の心をつかんでしまい虜にしてしまう。この心技は大変なことなのだがいとも簡単にしてしまう俳人もいるのだ。私の尊敬する俳句人の一人でもある故人の鈴木石夫先生は…そのような人であった。鈴木石夫先生の作品をひろってみよう。
    かまきりの孤高は午後の風の中     
   大寒や三途の河に橋はあるのか
   春の夜の手脚 静かに折りたたむ
   くわんのん様も臍出し秋の風起る
   場合によっては朝顔も木に上る
   鬼の子と言はれひたすらぶらさがる
   母の日は神も仏も暇でして
   風峠雲をちぎって捨てておく
   たましひの独り言 また雪が降る
   裏山に名前がなくて裏の山
人心とは人生の蓄積そのものなのかとも思う。作品の中にありながら私の存在を確認できるその姿こそ鈴木石夫先生であった。「これが私の俳句だ」と言えるまで俳句を続けなさいは弟子たちに残した言葉であった。昨今、私はいささか俳句職人臭くなっていて自責の念に悩まされているが、改めねばならない。特にネット俳句職人になってしまっている。本当の俳句は如何に人心を感じ取れるものなのかを感覚としなければならないのだろう
   遠くまで行く秋風とすこし行く   矢島渚男
現代俳句協会「データーベース」より。句心とは素直であること。物事に対して従順であること。人心は句心に現れる。この句は、有るがままに有るのを有るように句にしたものである。極めて素直な表現のままの句である。…だが、この句を目にとめた人は心を奪われてしまったかのように引き止められる。何故だろう、と私は思う。心が素直になれているからである。この素直な率直は、人生のいろんな蓄積の果てに訪れる試練を乗り越えた体験の心が込められているからだろう。ここでの俳句言葉「すこし行く」には作者の純粋な心の人生蓄積を感じるように思うのは私だけではないだろう。句心には人心がいろんな形をなして出てくるのである。その形と言うのは作者を象徴する目視物を見つけ出すことである。そしてその目視物を比喩として表現し、私の代わりをしてもらうことなのである。この句の「遠くまで行く秋風」は人生体験を果たした作者自身なのであろう。目視物から作者は作者自身の人生蓄積の私性を感じ受けとらなければならない事が句心…なのかもしれない。
 句心を問うてゆくとき、私の存在を大切にして目視していることが如何に大切であるのかが、それぞれの句の中に表現されていることが理解出来る。そのことが、しっかりと読みとれるのが、次の句であった。
   秋の暮大魚の骨を海が引く   西東三鬼
『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)より。三鬼は私の存在を最も大切にして、そのことを第一に思考しての句を多く作っているのだが、この「秋の暮」は代表的とも言える作品である。「大魚の骨を海が引く」の受け取りは無常観そのものである。ここにはどうしょうにもどうにもならない人生の哀れみがあり、三鬼のこれまで歩んできた人生の蓄積が込めれているようにも私は思ってしまう。三鬼が海岸に佇んでこの光景を眼に入れたとき、どれほどの悲しみを受けとったのであろうか。ここにはこれまでの体験した全ての感情をこめたものであろうと思われる。この感情は感動へと変革すのである。句心には作者の人生体験の実感が限りなく広がり、その心は満足で満たされる。謂わば「大魚の骨を海が引く」は比喩としての作者の象徴なのである。
 ここで、もう一句。比喩として作者を象徴する句を紹介。
   哭かむまで母の白髪時雨けり   小林康治
総合俳句誌「俳句」昭和36年2月号より。ここでの作者の象徴としての比喩言葉は「白髪時雨けり」である。「母」の人生体験経緯を感じさせるものとしての俳句言葉なのである。ここに使用されている「哭かむまで」の俳句言葉は些か過剰な表現言葉だが作者には考えがあってのこと。私はこの俳句言葉が人生の蓄積を感じとれるもののように思われる。ここには句心が人心として表現されているのである。また作者の心中にあるところの「白髪時雨けり」にも「母」の人生のこれまでの生きてきた実感を感じてしまう。この「時雨けり」は過去の母の日々を想起するものでもある。「白髪」の乱れる姿から「時雨」を連想したのであろう。私を象徴表現するのには比喩を用いての人心そのものが句心に現れるものなのである。
 この句心というものは人生全てにも大きな影響を与えることがある。あらゆることに失望した後の心に響くものでもある。不安や悲しみから解放してくれる優しい言葉にもなる。つまりは癒しのモーメントともなるのである。俳句することの意味や意義は句心から得られる癒しのモーメントなのである。
   白桃や力を抜いてもいい時間   宮澤雅子
2008年「歯車の集い」事前句会より。この句は18点を得た最高点の句であった。何故にこの句が、これほどまでに共感共鳴を受けのであろうか。ここには作者がこれまで辿って来た人生の実感がこの句の中に感じられ、しかも心が素直になれているひとときの安心が、選句者にコミニュケートされからである。人心は句心に表れる。人生における生きる力の真っ当な優しさや暖かさが必然的に句心に反映されて表現されるのである。即ち句心は人心の象徴なのである。では、その人心の象徴を句に取り入れるにはどうすればいいのか。俳句としての技巧ではなく、精神としての心の有り様を正すことに、その価値観を思う時がある。
 言霊学では心、言葉、行動が一致している状態を『三事』と言うのだが、この『三事』とは命が活々と躍動している状態なのである。句心にはこの『三事』が求められているのである。
   青林檎上向いてそっぽを向いて   松元峰子
句集『丸善檸檬』より。心、言葉、行動とは、突き詰めると自己主張の美しい安定した心を躍動させることである。句心には寂しいものや楽しい雰囲気も含んでいるのだが、この句に登場する『三事』とも思える「上向いてそっぽを向いて」はプラス思考なのである。作者自身の生き方が、この句には反映されていて句心を思わわせる。この「上向いてそっぽを向いて」は作者を象徴するものでもある。心と行動が一つのものになってこそのものが俳句言葉になる。ここでの行動とは作者自身の有しているプラス思考の意識のこと。「青林檎」を目視した時に動かされる心の響きがしっかりと見えているから、作者の人心が深く読者を頷かせる強さをも感じさせてくれている。人心が句心を象徴するものとなった。俳句言葉は心と、その作者の行動が常に伴った時に生まれる。山口誓子は物を直視した時に「あ!」と言葉が出る、と言う。この時点で俳句は出来ているのだと言った。これは『三事』のことだと私は思った。山口誓子の言っていることは心、言葉、行動、が一つになった時のことだと私は思う。作者が物を目視して何らかの感動を得た時には、そこには作者ならではの「あ!」と言葉に出してしまいそうな作者そのものの心情が宿っているものである。…これそのものが作者の心の中で行動を起こしているのである。俳句を作るときには物を目視した時に起こる「あ!」と言葉に出したくなる心の動きが大切なのである。即ち心、言葉、行動が一つになって『三事』を生む。この『三事』なるものは自己主張を句に込めるときには、どうしても欠かせぬ心理の彩ともなる。目視した時に飛び込んできた驚きと共感は心の中に宿っては消えないのだ。何時までもは目の中にだけあるものではなく、じわじわと心中に染み込んでくるもの。これが即ち残像イメージと言うものである。全ては「あ!」と言う発語なのだ。
   傷口に遠くの蝶が集まり来   対馬康子
「現代俳句」平成30年6月号。この「傷口」とは何の傷を指しているのだろうか。すこし戸惑う。だが、「蝶が集まり来」だから、白日のもとに光り輝いての目立った存在なのだろう。「蝶」にしてみれば興味津々なのだろう。でもここでの作者は「蝶」そのものを見ていたのでなく、ここで惹きつけられて、この光景を見ていたのは、「あ!」と思ったのは作者自身の姿を見ていたのだろう。私は作者の目を向けたのは作者を代弁して演じてくれている「蝶」の行動であったようにも思えるのである。人心は句心に表れるのである。虚しいまでに悲しいこの「蝶」の仕草に一抹の不安を抱くのは私だけではないだろう。俳句とは人心を如何なる形や姿で、どれほど強く、どれほど長く残像イメージを句心に残せるかではなかろうかと思う私の昨今がここにはある。
 
 俳句を作すとき、今作者自身が、何故句を日々なしているのかを自分自身に問い詰めなければならないことを個々が、真剣に考慮しなければならないのではないだろうか。多くの俳句作品は自分自身の身辺の日常を、単に報告すると言う範囲にとどまっていての内容でいいのであろうか。生き方の、或いは考え方の方向性が、そこに潜むものであってほしいものでありたい。人生の蓄積が重要に思えるときがある。その人の人柄が句心には出る。だから潜在意識を健在意識に高めて俳句鑑賞者の心をつかんでしまい虜にしてしまう。そのときの心とは「あ!」と言葉に出してしまいそうな作者、そのものの心情は素直の俳句心でもある。今でも私は思うのだが何時も目視の瞬間に「あ!」と思える心を大切に保持していたい。素直に感動出来る心をいつも保持していたいものである。句心とは人心の象徴なのかもしれない。