読者は俳句の何に興味があるのだろう

          俳 句 は 一 人 称 表 現

               児 島 庸 晃

 文章の書き方は三つある。一人称、二人称、そして三人称。私は一人称、貴方は二人称、私達は三人称。このうち俳句は一人称である。私性の文体(句体)と言われる所以である。現代俳句は一人称で物を捉え、即ち一人称で受け止めるものである。だから俳句には、「何故」が最も大切なのである。作者が一番主張したいものを表現出来るからなのである。

 俳句に関わり俳句に興味をもつ読者は俳句の何に興味があり、何に注目すのだろうか。連日、私の疑問はどんどん思考の深淵に嵌まりこんでいた。作っても作っても出来上がった私の俳句が、私に向かって、私から離れて行こうとするように、よそよそしく私に寄り付こうとはしないのだ。どれもこれも私を除け者にしようとするかにも私には思える日々。これをスランプと言うのかもしれない。俳句は作れるのだが、どれもこれまでの私の句ではないように思える。ここには一人称表現の大切さが私には備わっていなかったのではないかと思考する日々があった。

 ずーっと過去に遡り、私が俳句と接し始めた十代中期から二十代初めを思い出していた。この頃は出来上がった句が全て私自身であった。俳句イコール私であった。何が私の俳句の心を動かしていたのか、ふーっといまをふりかえる。一言で言えば思考の基準らしきものが正常に機能していたからであろう。もっと細かく詰めれば、何事に対しても真剣であり、真面目であり、何よりも純粋であったように思う。より厳しい社会の中で生きるに必死な純粋さであったのかもしれない。それには表現は一人称で書かねばと思う日々。いま、この純粋さを保持し27歳で病死した青年俳人を追慕していた。その名は新里純男。

   ねむい春日の触手肺から腐る僕   新里純男

   街は桜の季節で行方不明の僕    新里純男

森武司評論集「青春俳句の60人」より。「私」を表現するとは、どういうことなのか。…この思考に突き当たった時、何時も私は新里純男を思い出していた。純男の登場は昭和34年俳句結社「青玄」4月号であった。その時の句は…昏い雨季の日本を棄てた赤風船…であった。時はまだ伝統俳句の全盛期であり、ようやく金子兜太赤尾兜子高柳重信、鈴木六林男、などの現代俳句が話題になりかけた頃。意識をはっきりとさせ自己主張を詩心に問い詰めた句風は当時の若者を魅了した。当初、俳句との出会いは病院であり、入院中の楠本憲吉との出会いでもあった。その後「青玄」東京句会で指導していた憲吉のもとで研鑽を積んでゆく。そして「青玄」への登場となる。純男の言葉は私を鼓舞した…「僕は句の中に自分が入らなかったり、見つめている自分がなくては僕の句として満足できない。一つの句を完全に自分のものにする迄推敲し、追及してゆく」というものであった。これは一人称の思考である。私達は何の目的をもって句を作っているのであろうか。ただ漠然と物を目視し、その時の感覚に沿って一句を得る、と言う行為に過ぎなかったのではないか。だが、新里純男は句を作ると言うそのものではなかった。今が大切、いましかない、どう生きるのかと言う必死の心の訴えであったのだ。私達は俳句の作り方ばかりを思考していたのではないか。私の句が私に寄り付かず、私から離れて行こうとする、または私に対してよそよそしいのは私の生き方がそこには見えてこないからなのではないか。今過去に遡り今を思う。 純男は昭和35年4月19日、私はその訃報を知ったのだ。その時の句は…街は桜の季節で行方不明の僕…であった。風船忌とは純男の忌であり、初出句の句に由来するものである。その、初出句とは…。

   昏い雨季の日本を捨てた赤風船    新里純男       

このように風船忌と呼称したのは伊丹三樹彦であった。どう作るかでなくて、どう生きるか、何をするかでなくて、いまが大切、いましかない、の思想であったったのだろうと思える私を見ているもうひとりの私の存在がいまはある。これらはまさしく一人称の表現であった。