我が母のメモリアル

    私の母は102歳で天寿を全うしたのであるが、戦後の物資不足の時代の貧困と闘って生きてきた人であった。80歳を過ぎた頃より認知症になり施設暮らしであった。私は時々施設を訪問。近辺の散策へ連れて出ることを繰り返していた。そんなある日の記録が下記の私の詠んだ短歌である。

   囀りの言葉拾いに野へ母と母百二歳一歩二歩三歩          児島庸晃 

上記の短歌は神戸新聞文芸・短歌部門の特選。2013年3月5日の朝刊に掲載されものでした。

  選者…尾崎まゆみ…さんの特選評を掲載いたします。

 〔評〕囀りは、しきりに鳥が鳴くこと。特に春の繁殖期の雄鳥の声を指すので、俳句では春の季語だという。母と、鳥の囀りが聞こえてくるのを楽しみに、散歩しているのだろう。長い冬の後にくる春は、何かが変わりそうな気がして、待ち遠しい。そんな希望に満ち溢れた春を、花の蕾ではなく、囀りに託す。下句の数字の使い方に目を引く。102歳の母が、その長い人生を背負い、子の助けを借りて、一歩ずつ春へ歩む様子が、数字によって目の前に鮮やかに見えてくるのだ。

 

 この短歌のモデルとなったわが母はもうこの世にいない。…ここで以前にブログで書いた文章があるので採録するこにいたしました。

   初夏われに散華のごとき骨ぞ母  庸晃

初夏の日差しの中に尼崎市営弥生ヶ丘斎場は白光していた。何年か前に新設された火葬場は一際目立つ大きな建造物になっていた。ここへは二回ばかり来た事はあるがとても美しいとは言いがたいものではなかった。ところが今、目の前に見る光景は実に美しい。私たちはつい先ほど葬儀を終え、母の亡骸とともに車を止めたのだ。私はこの敷地に踏み込むや何となく明るい気持ちになっていた。亡骸を火葬するにはと思いもっと暗いイメージをもっていた。だが、それまでの咳き込むような涙目は、もう誰の眼にもなかった。…思うれば兄より母の様態が急変している事実を耳にしたのは4月28日であった。医師よりみなさんに最後のお別れを、早くして置くようにとの話しであった。そのとき私はそうだ、数えで102歳なんだから当然なんだろうとは思ったが、100歳近くになって転倒骨折したときも、自力で骨の回復を果たし、医師から100歳の人の骨のひっつくことはありえない、奇跡だとも思われていた。私はやっぱりかと思ってはいたが、酸素欠量による寿命とのことであった。4月30日、わたしは妻とともに施設を尋ねる。ゆっくりと起き上がってきた姿には驚いた。とても102歳とは思えなかった。あれほどあった顔の皺はなく、肌の艶はふくよかになり、やわらかく温和になっていた。母自ら手を出してきて私の手を掴んだ。びっくりするほどの力の強さだった。そのとき、これが最後だと思ったのかもしれぬ。

   草笛や喃語の母へ春献上  庸晃

しっかりした言葉もあったが、赤子にも等しい言葉の部分もあり、笑う顔の表情には安らぎさえ思われた。そして施設の部屋を出ようとする瞬間だった。「生まれ来る子のために死んでゆくんや」…母の言葉だった。これは母の最後の言葉かも知れぬが、自覚していた言葉かもと思う。施設を出た私たちは施設の周りの蓮華畑にいた。蓮華の茎を短く切って笛にしていた。それは母への春を献上することだったのだ。…いま正に母の骨は真っ白。傍によると熱い。隠亡は静かに骨壷を差し出し、母の骨を拾う箸を渡す。

   「母ですよ」熱灰中に骨たしか  庸晃

「母ですよ」と私の耳の傍の声。はっと我に返っていた。やっぱり母なんだ。拾えば拾うほどに嗚呼母と思う。散華のように見えてる母の骨の姿に美しさを見たとき、心の落ち着きが戻っていた。そこには新しい美しい彼の世への旅立ちにも思える。私の心を喜ばしてくれる母の心でもあった。