私個人のメモリアル⓶

        初夏われに散華のごとき骨ぞ母   児島庸晃

 初夏の日差しの中に尼崎市営弥生ヶ丘斎場は白光していた。何年か前に新設された火葬場は一際目立つ大きな建造物になっていた。ここへは二回ばかり来た事はあるがとても美しいと言えるものではなかった。ところがいま目の前に見る光景は実に美しい。私たちはつい先ほど葬儀を終え、母の亡骸とともに車を止めたのだ。私はこの敷地に踏み込むや何となく明るい気持ちになっていた。亡骸を火葬するのにはと思い、もっと暗いイメージをもっていた。だが、それまでの咳き込むような涙目は、もう誰の眼にもなかった。

思うれば兄より母の様態が急変している事実を耳にしたのは四月二八日であった。医師よりみなさんに最後のお別れを、早くして置くようにとの話しであった。そのとき私はそうだ、数えで百二歳なんだから当然なんだろうとは思ったが、百歳近くになって転倒骨折したときも、自力で骨の回復を果たし、医師から百歳の人の骨のひっつくことはありえない、奇跡だとも思われていた。私はやっぱりかと思ってはいたが、酸素欠量による寿命とのことであった。四月三〇日、わたしは妻とともに施設を訪ねる。ゆっくりと起き上がってきた姿には驚いた。とても百二歳とは思えなかった。あれほどあった顔の皺はなく、肌の艶はふくよかになり、やわらかく温和になっていた。母自ら手を出してきて私の手を掴んだ。びっくりするほどの力の強さだった。そのとき、これが最後だと思ったのかもしれない。

 しっかりした言葉もあったが、赤子にも等しい言葉の部分もあり、笑う顔の表情には安らぎさえ思われた。そして施設の部屋を出ようとする瞬間だった。

「生まれ来る子のために死んでゆくんや」…母の言葉だった。これは母の最後の言葉かも知れぬが、自覚していた言葉かもと思う。

 施設を出た私たちは施設の周りの蓮華畑にいた。蓮華の茎を短く切って笛にしていた。それは母への春を献上することだったのだ。

   草笛や喃語の母へ春献上   児島庸晃 

いま正に母の骨は真っ白。傍によると熱い。隠亡は静かに骨壷を差し出し、母の骨を拾う箸を渡す。

   母ですよ熱灰中に骨たしか   児島庸晃 

「母ですよ」と私の耳の傍の声。はっと我に返っていた。やっぱり母なんだ。拾えば拾うほどに嗚呼母と思う。散華のように見えてる母の骨の姿に美しさを見たとき、心の落ち着きが戻っていた。そこには新しい美しい彼の世への旅立ちにも思える。私の心を喜ばしてくれる母の心でもあった。