神戸新聞読者文芸 私のメモリアル③

           神戸新聞読者文芸 小説部門入選作品

        河 川 敷 の 哲 ち ゃ ん  児島照夫(庸晃)

                  (2004年3月8日朝刊掲載)

 冷たい雨の日だった。「お願いだから死なせてくれ」。私の手を掴み必死に懇願する男。名前は哲ちゃんと言う。足首にくくりつけるコンクリ^とブロックを抱え水の深みに入ろうとしたしていた哲ちゃん。その時、私の手を振りほどき水に飛び込んでいった哲ちゃん。水面から首だけが出た姿を私は必死な目で追った。

 それから一年半が経っていた。自殺未遂を経た哲ちゃんの行方を私は探して歩いた。近畿はもとより四国や九州へも飛んだ。やっとのことで居場所が分かる。そこはこの武庫川公園の河川敷であった。河川敷はスポーツ公園ということもあってか人々は賑やかな声を出している。でも誰も哲ちゃんの事は知らない。私は心に残る一年半ほど前の思い出を呼び起こしていた。

…あの水鳥はいつも一本脚で立っているんや。哲ちゃんは指で示す。川の真ん中に視線を向け流れてゆく水面の波の揺れに目を向けていた。…寒い時も雪の日も一本脚やったな。じっと前方を眺め視線を水面に落とす。哲ちゃんの仕草といえばたつたのこれだけの事だった。何時も決まって河川敷の木椅子に腰を下ろす。ひたすら目の前の水面を眺めては瞼を少し動かす。殊更目立った行動をするわけではなかった。毎日ここの同じ場所に来て白色に塗られた木椅子に座る。日々の水鳥のしぐさを見続けていた。四季を通じて雨の日も風の吹く時も、そして木枯らしの強いまだ明けきらぬ朝も、そうだった。ヒューン、ビューンキューンもがり笛とも呼ばれるこの音はあちらこちらで湧き起り耳のそばを通り過ぎる。少し、ほんの少し朝が明け始める。木椅子に座り時が静かに過ぎて行くのを感じながらもひたすら黙って俯いていた。目を瞑り両方の掌を見ては考えるしぐさや握り拳をしてはまた開く。朝の冬日がふんわりと水面を照らす。やがて敷き詰められるように置かれ水面が暖かそうな色になった。やっぱり死のう、と哲ちゃん。小声が口から洩れるのを私の耳は捉えていた。

 初めて哲ちゃんに会ったのは四月の桜の花が散りかけたころ・水面に浮かぶその花の姿に心を奪われていた私に声を掛けてきたのがきっかけであった。

   泣くもんか 東風(こち)落ちくぼむ水の面

独り言のように呟く。これは何? と聞いた私。咄嗟に、これですか、と再び聞き直した哲ちゃん。そして、これは俳句ですよ、俳句なんですよ。ボクの心を言っているんですよ。天を仰ぐように顔を上げ前方をしっかりと見る。どんなことがあったかはしれないが、何かの苦しみを背負っているのだろう。哲ちゃんはそっと顔を俯け黙ってしまう。哲ちゃん、哲ちゃんと、囁き心を静めることを私は繰り返す。水面を見詰めながら涙ぐみ哲ちゃんは喋る。

   貧しくて 花見ていなけりゃさみしくて

桜の季節でもボクの気持ちは晴れませんね、心は真っ暗ですわ。この俳句は哲ちゃんの苦しみか、いま悩んでいるのか。それからの哲ちゃんは下を向き無口になった。

 

 実は一度だけ哲ちゃんの家を訪ねた事がある。貰ったメモを頼りに阪神電車の尼崎駅で下車、南へ向かって歩く。途中、神社の反り上がった大屋根がこの町には似合わない。下町の雰囲気もつ長屋風の一画に哲ちゃんの平屋はあった。細い路地を挟むように両側に長屋が二十軒ばかり並び、路地の突き当りの側の一番端に平屋はあった。哲ちゃんと声を出すと奥から十歳位の女の子が出てきて笑う。とうちゃん? と大きい声で奥へ向かって呼ぶ。すぐに哲ちゃんはスリッパをつっかけて出てきた。おお! と哲ちゃん。ああ! と私。親しみのある接待を受け畳に私は座る。部屋を見渡すと何処にも家具や電気製品が無い。なおも周りを見るも、やはり何も置かれてはいなかった。畳六枚と二枚の続きの部屋には僅かな仕切りのカーテンが吊り下げられていて台所は丸見えである。周囲の壁はひび割れが出来ていて、その部分にはボール紙が貼ってある。ただの貧しさと言ったものではなかった。どうにのならないところまでになっているのだろう。生活の出来ない事を思わせる。畳の上を歩くと音がして足型のまま少しひっこむ。この部屋で哲ちゃんは十年も暮らしていた。住みながらもひたすら毎日を必死に生きていたのだ。ふと視線を窓際に向けると僅かに朝の冬日が入ってくる。線上に射してくる光線は畳の上に柔らかく温かい波の形を置き広がる。たっぷりと冬日の降るその中に私と哲ちゃんは座っていた。そして語り合った。びっくしたでしょうと、哲ちゃん。何が、と私。こんなに貧乏なんだ。あっちも、こっちも見える所は全部ね。大きい声で笑ったのは哲ちゃんだった。何がこのような貧しい暮らしをせねばならなくなったのか、哲ちゃんは喋り始めた。ここにある仏壇は妻のものなのです。貧乏に苦しみ自殺してしまったんですよ。天を仰ぎ瞳を開きポツリポツリ口から漏らす。会社が倒産してから借金苦の毎日だった、と哲ちゃん。サラリーローンの返済地獄へ陥っていったのだ、と。私は黙った頷いていた。とうちゃん、と十歳の女の子は哲ちゃんのそばに来て座る。おなかすいたよ。おなかすいたのよ。女の子は身体を揺すり懇願する。だだっこのように足をバタバタさせ泣く。本当にひもじいのだろう。やがて泣く力もなくなり崩れるようにその場にしゃがむ。もう三日も何も食べていないのだと哲ちゃんは言う。所持金は脅されるように返済金として持って行かれ無いのだと言う。がたがたと震える足の哲ちゃんの身体は右へ左へと傾き全身の張りが失せ崩れ落ちた。お金がないんだ。お金がね。静かにゆっくり漏れる言葉を私はしっかり聞いていた。とうちゃん! とうちゃん! か弱い声を続けて時が経つ。やがて疲れたのであろう女の子は瞳を閉じた。胸につまる思いを目の中に入れ、その親子の慟哭を私は必死に感じようと足に力を込め立った。ここに十万円あるから使ってよね。そっと哲ちゃんの掌に載せて囁いた。深く深くお辞儀をする頭を一度上げ私を見る。ああ! やっぱり泣いているのか。私の目の中は哲ちゃんの涙を受け止めていた。

 

 町は越年し正月を迎えていた。阪神電車尼崎駅を下車し南へと向かって歩いていた。途中の行き交う人は晴れ着でいっぱいの楽しさを顔に出し近くの神社への道を歩いて行く。擦れ違う多くの人たちを避けるように私はやや俯きがちにさらに南へと歩く。頭の中にはあの清貧な親子の事が気になり歩く足を速めていた。十字路を右へ曲がり進むと細い路地が見えその先が哲ちゃんの家のはずであった。だが、家らしいものは何処にもない。改めて目をぱっちりと開き見るも家はなかった。家のあったであろう所は更地になっていて冬日の日差しがほんの僅かではあったが暖かそうな色を置いていた。隣の住人に聞いて見ると借金の取り立てで家にはおれなくなったのだとのこと。その後、土地の権利者が解体したのだとも話した 私はあの女の子の空腹に耐えられず崩れるようにしゃがみこんだ姿を思い出していた。視線を足元に戻し冬日の色艶を濃くしている部分をもう一度見る。そこの冬日の真ん中にしゃがむ十歳の女の子の姿を置いた。地面に屈む女の子の爪先からゆらゆらと炎のように冬日が昇ってゆくのを目の中に置いた。暖かな日差しが女の子の全身を包むその冬日の、たっぷり長い時間続くことを願った。すべては幻に過ぎないが、ここにひもじい空腹の女の子がいたことをしっかりと認識したかった。社会が崩れてゆく中で生活から外れてしまわなければならない一家族の破綻を見る。…自助努力とか、苦しみを分け合うとか、そんなもんボクには関係ないんだよ。哲ちゃんの言葉を思い出し目を瞑った。

 長い梅雨が明け身体のあらゆるところから汗が噴き出す季節になっていた。首のあたりの汗を拭き拭き昼食中のこと、突然のことであった。電話のベルが鳴る。警察からであった。哲ちゃん見受け人として引き取りに来てほしいとの話であった。呆然とする私の頭を巡ったのはある言葉であった。「お願いだから死なせてくれ」。私は思った。…哲ちゃんは自殺したのかも? 頭の中は混乱していた。受話器を手で支え私は聞く。死んでしまったのですか。いいえ、そうではありません、と受話器の中の声。未遂なんですがね。だから見受けの捺印をしてほしいのです。どうして私の名前が? と聞くも、しっかり結んだ握り拳をそっと開くと紙切れがありましてね。そこにあなたの電話番号が書かれていたんです。

 阪神電車武庫川駅で下車。北へ五十メートルほど歩くと交番所はあった。自動扉の前に立つとゆっくりと開きその真中へと私は入った。机に顔を俯す哲ちゃん。二人の警察官に囲まれたその内側に机があり、その前に暫くじっと俯いていた哲ちゃん。何かの物品かとも思われるほどに形をなさない哲ちゃんの姿を私は見る。居るというよりは置かれて在ると言った方が相応しい寂しさを私は見る。警察官は、通りかかった人に助けられたんですよ、と言う。だが、私は即座にうなずかなかった。そっと側により声を掛ける。哲ちゃん、本当は助けてもらわない方が良かったんじゃないの? 死んでしまいたかったんだろう。少しばかり強い言葉で私は聞いたのだ。俯いていた顔を力弱く上げた哲ちゃんは静かに話し始めた。生きてるより死ねば気持ちが軽くなるもん。ボクの苦しみは借金取り立ての脅しを身をもって受けたもんでないとわかりませんよ。生きていても生きた心地はしませんね!身体を身震いさせながらも低く弱い口調で喋る。一つひとつ言葉を区切って口を開いていたが瞳をときどき瞑る。何時しか言葉はおえつになり哲ちゃんは黙った。十歳の女の子は実家に預けてあるのだと言う。何とか自力で復活しようとの考えがあっての事だも漏らした。河川敷に小屋を作り自活の道を目指して必死に生きて行こうとしていることを告げた。それでどうして、また死のうと思ったんだい、と私。ここにまでもね、こんなところまできて脅すんだよ、と哲ちゃん。借りた金は返さなければならないが、無いものはどうにもならんのや。

 哲ちゃん見受けの捺印をし交番所を出る。自動扉が開き閉まるこの間のなにげないほんの数十分にも人生の悲劇はある。いろんな人がこの交番所の自動扉を開閉させたことであったにしてもそこにはどうにもならない事もあるのだ。哲ちゃんの後姿の寂しさをまじまじと見つくしていた。

 

 約束の白い木椅子にゆったりと座って哲ちゃんは待っていた。交番所で身受けをしてから一年半が経っていた。握手をして私も木椅子に座る。…ボクが今日あるのはあの水鳥の一本脚で立ってる時の忍耐なんです。目の前を見れば水鳥は水面に一本だけ脚を挿し身動きもせず姿勢も崩さず、身体を固定した足の上に乗せていた。気温が下がり雪になった。雪片は水鳥を覆いかぶせてゆき、やがて鳥なのかオブジェなのかわからぬほどの雪像になっていた。午後になり雪像の切れ目から太陽が顔を出す。…辛抱せよ、辛抱なんだと、この水鳥たちはボクを導てくれたんです。これが生きている理由なんです。

 哲ちゃんは水面をじっと凝視し時々は顔を上げた。同じように私も顔を上げて笑った。やっと生きている気になってくれたのか。すこし哲ちゃんも笑った。見ると水面の水鳥は羽毛をぶるんと震わせ雪を振り落としていた。。振り落としながらも瞬いた。あの雪像の水鳥は死んではいなかったのだ。