俳句における味のいろいろ

 俳句の個性とは…そのように思って俳句の道を50年余も歩いてきた。だが、私にとっての俳句の道の始めは、高校生のときだから遠い昔である。…にも関わらず、いったい何を学んできたのだろうか。未だに何も会得していないのだ。そしてその多くは俳句の味を、何一つ見出してはいないことだった。

 味といっても人には、それぞれの好みがあるのだ。単純に言ってしまえば好きな俳句、それほど好きでもない俳句。この区別が俳人一人ひとりの選句には出る。私は、その基本的な相違を考えたいのである。この稿で述べたいのは、どうして俳句に好き嫌いが出てくるのかを考えたいのである。

 大きく分別すると、写生と写実の把握の仕方に、その方法の相違は起因するように思えることだった。

 

  写生…自然あるいは事物ありさまを見たままに写し取る。

  写実…あらゆる事象をありのままに描写すること。

 

上記の事項は表現をする作者の基本的な態度である。そしてここでもっとも大切な品格の相違も、この中には出てくる。有りのままの俳句と演出する俳句。前者を構成主義俳句。後者をリアリズム俳句。写生は絵で言うとこのスケッチなのだが、スケッチそのものは、本人の意志や感情を入れないで描写することが基本である。従って事物のありのまま。一方、写実は、あらゆる事象である。事象には、そのときのそのときの見た時点での事柄に変化がある。その変化した物を、どのように現れるかを克明に観察して表記する。ここには本人の意志や感情が入るのである。

 俳句で通常よく言われている写生が出来ていないとは…どういうことなのかだが、それは基本が描けていないということ。これは絵の感覚での表現であって、直接俳句には通用しないのではないかと思う私である。

   人間をやめられなくて春田打つ  石口 栄

   人が人の形で歩く原爆忌     加藤遊名 

この二句は第51回現代俳句全国大会で大会賞になった句である。どちらも「人間」を扱った句だが、句に対する扱いが異なる。前句は写生の句である。そして後句は写実の句である。先ず前句の「春田打つ」の句だが、事物を頭の中で作り、そのままに発想していることのように私には思われる。「やめられなくて」は言葉の解説にとどまり、言葉を意味に変えているにとどまっている。ここから句を広げて展開しようとしても、これ以上は進まない。形におさまった俳句である。…所謂写生句なのである。基本は出来ているがスケッチの句なのである。

 一方、後句の「原爆忌」の句は事象を捉え、作者の意志や感情が籠められている。普段は人間を見ていても人の形など、改めて思ったこともないだろうと思う。この原爆忌の日だけに思う事象であったのだろうと思う。作者の、この日にだけ見えてきた事象であったと思われる。…従って写実の俳句なのである。

 さて、ここで何が俳句に対しての好きな句、それほどでもない句の違いが出るのかだが、俳句には「味」が、それぞれあって食事をするときのように好みが、人によって違うということである。写生に主眼を求める句には、個人の意思とゆうよりは一般的な誰もが感じている意志で、鑑賞者には何の抵抗もなく溶け込み馴染みやすい。一般的な無理のない表現なのである。また、写実の句には作者独特な感覚の受け取りがあり、そこに詩情を高める心情がある。誰もが感じ取りにくい心情の事象を誰にでもわかる表現に変えなければならない難易度がある。この努力をしてゆく途中で諦めてしまう。この努力が実らなければ俳句は伝達されないのである。

 この写生と写実の間にあって、鑑賞者は作者に振り回されているのが現状である。この時に生じる句の鑑賞が好きな句やそれほど好きではない句を作ってしまうのである。

写性説を提唱して結社の結束を唱えたのは子規であったが代表作に次の句がある。

   鶏頭の十四五本もありぬべし     正岡子規  

この句は、歌人斎藤茂吉により子規晩年の代表作として賞揚された。しかし高浜虚子は、子規の住句として認めることはなかったのである。私たちは、この句に「味」を求めるとすれば何を根拠にしているのであろうか。写性の基本であるスケッチには感情が入らない。自然のままである。食事での味とすると淡白なのか。薄味なのか。好き嫌いは…ここから始まる。自然を眺めるときの純粋性は、子規の心にはあったようにも思われるのだ。「鶏頭」の存在感は限りなくある。この存在感に心を奪われている子規の心の強さは分かる。

 しかし一方、この句に物足りなさを感じる俳人も多い。何故なのか。極あたりまえの自然風景に何の感動もしないことに面白味を感じないのだ。受け入れられない俳人にとっては感受性に乏しい句としてしか受け取れないのである。ここには好き嫌いが生じる理由を見つけることが出来る。写生と写実の違いについてだが、資料を調べていて私が興味を感じた記事を発見した。 

 「俳句空間」1990年6月号,「俳句の幻想,もしくは幻想する俳句」という,

  阿部完市と夏石番矢の対談から、…の抜粋だが、阿部完市自身も些か、その違い

  についての迷いを抱いていたのではないかともとれる発言である。

阿部:私はね,写生についてよく言われることなんだけれども,生を写す,~(中略)~生命なんか写ってないですよ。いわゆる写生というのはね。それじゃ写真だ,私は本当の写実なら実(じつ)の中から,生(なま)な生命を救い出さなきゃ,写実を言っちゃいけないと思うのに,~(中略)~本当の写生とか写実というのはその(形,色,匂い,位置,背景)向こうにあるものですよ。

 この阿部完市の戸惑いのようなものはなになんだろうと思う。ここにも俳句に対する好き嫌いの意識はなかったのであろうか。例えば次のような句に至っては、はっきりと、その好き嫌いの区別がないことを示していた。

   とんぼ連れて味方あつまる山の国    阿部完市

ここに登場する「とんぼ」は、作者阿部完市からすれば、全てが、自分から見て遠い所にある存在なのである。所謂、阿部完市の言葉を借りれば、全部「向こうにあるものですよ」なのだ。その俳句が好きになるのも、好きになれないのも、自分の感情を介して、対象物を見てはならないといううことなのである。どのような句も自分の、即ち自分の体外にあるもので、相手から、見ている対象物から、発せられるもので、個人的な観念で見てはならないということなのである。ここには個人の既成概念で対象物を見てはならないというこなのであった。阿部完市にしてみれば写生も写実も同じ思考の次元での句作であったのかもしれない。むしろ対象物を見ている作者の方の問題で鑑賞者は個人個人の偏った既成観念で選句をしていたのかもしれない。

   不発弾ひとつはこんで馬帰る      阿部完市

この句などは写生でも写実でもない。ここに存在するのは状況だけである。阿部完市の見た世界であって、われわれ凡人であれば句にはなっていなかっただろう。状況を見尽くすのに好き嫌いなどないからだ。如何に純粋な瞳で状況を見ているかであって、作者自身が純粋な心で物を見ているかが伺える。心に濁りがない必然こそが、俳句に好き嫌いを無くす根本精神ではなかろうかとも思う。

 

 俳句の「味」とは…問い詰めてゆけば、薄い味と濃い味のことではなかろうかと思う。その好みは食事のときの趣向にすぎないのではなかろうか。こころよりその俳句が好きな句、それほど好きでもない句が、俳人個人によって異なってくる。

だが、俳句に好き句、それほど好きでもない句の区別をしての選句は、本来のものではない。阿部完市も言ってるように本当の写生とか写実というのはその(形,色,匂い,位置,背景)向こうにあるものですよ、の言葉は重い。この言葉こそは俳人の最も重要な根本理念のように思える。本来の俳句の味とは、心に汚れのない真っ白な純粋な瞳で物を見尽くすことであった。ここにあるのは写生でも写実でもない。