俳句における動詞は使い方で意味が変わる

         その具体例を示してその違いを書きたい

               児 島 庸 晃

 俳句には、その時の目視の状況によって動詞の使い方は変わる。表現は小説などの散文における表現とは異なる。17音という特殊な文体のためただ単なる一字といえども、その目的によって,動詞の使い方によって意味が変化する。しっかりした用法の知識がなければ、本来の動詞の役目ははたせないのだ。

 その具体例を示して、その違いを書きたい。

   いる…生きているものとしての存在感

   ある…生きたものではなく、体温のない存在感

同じものの存在感を問う言葉にしても作者の個性によっては生者となったり、死者となったり、「いる」「ある」の使い分けをする。身近な形としていくつか、例をあげてみるが、「魚がいる」「魚がある」、このふたつの区別は水に泳いでいる魚は「ある」ではなくて「いる」である。このようにことばひとつを選ぶときにも、表現する場によっては「ある」であったり、「いる」であるわけで、ここに俳句のラッピングの重要な観点を思うのである。

   花野にはいつもやさしい 鳥がいる   渡辺貞子

この句は「いつもやさしい」ということばの出すぎがあるのだが、このことばを補っているのは「鳥がいる」の「いる」である。生きものとしてのいかにもいきいきとした温かい体温が感じられる「いる」の鳥の存在であって「いつもやさしい」は作者が「鳥」に変身している姿までわかる、好ましい風景が感じられるのだ。一方、「鳥である」という表現をしていればどうであったか、考えてみればわかるのだが、自分とは距離のある、遠くにいるつめたい鳥としての存在でしかない。中七にある「いつもやさしい」ということばは単なる説明であって、ムダなことばの使い方ということになってしまう。この句は動詞の意味を熟知していての作者の本来のあるべき姿を示したと言える。