直情とそれを抑えようとの意識ことば…俳句とは

            動詞の意味主体を考えると複雑

                児 島 庸 晃

 俳句には、直情と、それを抑えようと意識する、批判的な心が何時も同居して作者の胸中を苦しめる。そのときの方向性を示すのが、動詞の存在である。ときに作者の思いとは全く違う情感を示し突然の直情を奏でて句を定着させてしまうことがある。…その修正に次の句を思い出す。

   峡深し夕日は花にだけ届く  稲畑汀子

   ふたりして月の匂いの森に入る  鳴戸奈菜

   秋は白い館を蝶が食べはじめ  西川徹郎  

私はこの三人の句を思い出しては私を修正してきた。何れも動詞主体の句である。ここに採録した三句はどの句も終結部分に動詞が使われていて工夫することの意味が見事にその効果を示すものであると私は思ってきた。

 「峡深し」の句は二〇〇四年「俳句研究」年鑑自選句で出会うことが出来た句。この句を見た瞬間に私の常日頃の句に対する悩みがいっぺんに吹っ飛んでいた。いったいこれは何なんだろうと、思う日々であった。どうしても作句のときの直情が出てしまう。それを解きほぐすものであったのだ。そして私に見えてきたものが動詞の使い方にあると知った時が未だに忘れられない。その動詞部分の「届く」は他動詞で主語以外への動作、作用を表す動詞。文献によると「…を」、「…に」の修飾語に続くとある。したがって「花に…」に続き他動詞である。この句では主語は「花」なのだが、他動詞の使用で「花」ではなく、この「花」は「私」へと変化してきて私性の文体になるのである。ここには私の主張がはっきりと表現され寄物陳思の句ながらも正述心緒の趣を内在して深みのある句になっているのである。見事な言語の使用に教えられた句であった。

 「ふたりして…」の句は二〇〇七年「俳句研究」一月号「露景色」の、12句の中の一句である。「森に入る」の動詞は他動詞。主語は「森」なのだが、やはり「私」に変化。しかも、「ふたりして」という言葉も動詞。この「…して」は補助動詞。またの名を形式動詞ともいう。本来の動詞の意味が弱くなり補助的な役割で使われる動詞。文献によると「…て(で)」に続くとある。一句のなかに二つの動詞が使用されていてすこし句の方向性を混乱させ、普通は主体を混乱させるものなのだが、この「…して」は補助動詞で動詞の意味を弱めている。したがって「森に入る」の言葉の方へ動詞の意味主体を向けているのだ。読み手をしっかりと引張り句の緊張感を強めることに成功しているものであった。

 「秋は…」の句は一九七二年「渦」四月号より、第二回渦賞準賞作30句の中の一句である。私が注目したのは「食べはじめ」の動詞の使い方であった。行動や作業を表す動詞の「食べはじめ」ははっきりとした作者の意志を示していてこの動詞は自動詞である。文献によると「…が」「…は」「…も」の主語に続くとある。ここでの主語は「蝶」なのだが、「秋は…」という抽象名詞があり、この言葉も主語である。二つも主語を使用していながら句そのものがばらばらにはならない。何故なんだろうと思う日日。ここで解ったことは主語にも主従ががあり、大きな主語と小さな主語が仲良く同居し快いハーモニーを奏でているのだという事。この「食べはじめ」は「秋」と「蝶」の両方へ意味をなすものだと思えたのであった。自動詞とはこのような使い方が出来て心を豊かに緊張させてくれるのだろうと微笑んだ思い出がある。 動詞の作用はまだまだいろんな方向性を示しながらも吃驚する貴重な言語なのである。俳人個々は、普段あまりこのような私が体験したようなことを意識して作ってはいないだろうが、句を読んでいて心を刺激する時がある。そこには目を止めて見てしまうだけの理由があると思う。何かが発見できると思うので考えてほしい。動詞主体の句の特性は、何よりも風情を感じ情感を最も尊重する句の姿でもあったのだ。