私自身が純粋になれた数々の思い出

              感銘深く心を洗い流す体験より

                   児 島 庸 晃

           たとえれば寒の最中の海白し  庸晃

二四時間勤務のためJR甲子園口駅を朝6時に乗る。何時もと同じようにきまった時間にきまった仕草をする。そしてそのことを別に不思議とも考えない日々が続いていた。私達が生活している、その一日の出来事の中で心の中に飛び込んでくるような感動の一瞬はいったい一生のうちに何回あるのだろうか考えてみた。心をときめかして現実にぶつかっていった純粋さは、もう私の心の中にはないのかもしれない。…そう思いつつ最近話題になっているアニメーション監督の言葉を思い出していた。神山健治氏(40才)。「精霊の守り人」のアニメーションを作った監督である。「刃物の錆は砥石で落とす。人の錆は対話で落とす」。氏のデスクの傍に格言のように張られている言葉である。対話することによって人間の垢や毒を落としゆこうとする姿勢である。ドラマを作るときお互いのもつ醜いもの全てを棄て無垢の人間になって話し合おうと言う。純粋になろうとする心を持ち合おう。スタッフ全員が無垢になろうとするのだ。対話はそのもののためであると言う。いま車窓から視線を須磨の海へ向けていた。大寒の海は色彩などない。粘りついた海は白いのだ。秋から冬への頃は黒っぽい。徐々に汚れを落とし白くなるのは大寒の頃。純粋になろうと自助努力をして春から夏へかけて紺碧に生まれかわる。この純粋へ努力する心こそ人間にはいるように思える。

   海よりも花はつめたいかも知れぬ    今井杏太郎

作者は「魚座」主幹。何という純粋ぞ。ここまで自然を見つめ見尽くすときの人間になるには生活の匂いがなくなるまでの努力を作者自身行っている。もっと自然に即した素直さと美しさを回復しなければならないようにも思えるのだ。この句には生活に傷ついた人間にだけ相通じる救いのようなものまであるようにも思える。この「つめたい」は暖かさを願ってやまない作者の心でもあろう。なかなかここまでもは磨くことの出来ない心の真髄に触れる思いである。

   魴鮄に眼のあることの寂しさよ   今井杏太郎

   鮟鱇のこのほほゑみの顔を見よ   今井杏太郎

ここまで物が見えてくるときとはいったいどのような時なのかと考えてみる。私達は日常の生活のなかで殆ど傷つきも痛みも忘れたかのように無口になって行動する。作品にも感動しなくなったとき如何に自分が日常的な思考を別に不思議ともしないほど、忠実に日常に即して生きているかを知るであろう。感動もしなければ立腹もしない。これは詩人ではない。もっともっと純粋に自分を磨かねばならないときだと思えばよい。ときに物事がよく見えてくることがある。それはまさしく自分が純粋になれたときである。