俳人依光陽子さんの言葉

          点景の花火をまいている絵筆   児島庸晃

ただ見ているだけなれば…どうってことはないのだがそこに美意識をもつまでには時間と忍耐を要する花火であった。これはスカイマークスタジアムより打ち上げられる花火を8キロほど離れたビルの13階より見た光景である。巡回という仕事中のこと。広島対オリックスの5回終了時のグランド整備中のイベント。私は全てを承知し、ひそかな期待をもってのことである。

 ところがこの花火の風景を見たその時それほどの感激を受けなかったのだ。何故なのだろう。二日ばかりもやもやとすっきりしない心が続いていた。そして心をとめる文章に出会うまでは…。依光陽子さんは「私の季語の現場」のなかで必死に訴えて語りかけている。「新しいリアリティを顕現できるか」言葉が機能していなければ現場があってもそれはただの意味に過ぎない、と言う。我々は普段モノに囲まれているが、その一つ一つを意識してはいない。「現場で一つ一つモノを意識にとりこむことではじめて現実世界が手ごたえを持ち始める」。

 つまり私は…花火と言うそのもの観念に執着していて日常から抜け出していなかった。考えてみればモノに触れたとき自分自身とのふれあいの確認がなされていなかったのだ。これではいくら五感を研ぎ澄ませていても何も感じないことになる。これを六感というのかも。

 現場の臨場感を強めるのは…このときのために季語のもつ要素は大切なのかも、とは思う。俳句は短い文体。だとすれば…いくつもの削り落とされた言葉は選者が感じなければならない。いくつもの言葉との戦いのなかで残ったものこそが季語と言う価値観になるのかもしれない。

 次の依光陽子さんの言葉であった。

…まず断っておきたいのは、俳句にとって何より重要なことは言葉が十分に機能しているかどうかということだ。どれだけ喚起力を持ち、詠み手の想像力に対して自立できるか。どれだけのものの手ごたえを備え、新しいリアリティを顕現できるか。つまり現場に立たずとも言葉が機能さえしていれば読み手に受容されるし、言葉が機能していなければ現場があってもそれはただの意味に過ぎない。

 この発言は「私的現場孝」というタイトル、総合誌「俳句研究」平成17年3月号に掲載された文章の一部分である。