「取り合わせ」の妙味

         六月や余白なきまで文字詰まる  児島庸晃

六月…このなんとなく嫌な雰囲気は避けては通れない。雨が多いと言うだけのことではない。⑥という数字は③と⑨の系列にある真ん中の数字。私はここ10年ほどシンクロ二ティなる研究をしているのだが、何かの事が起こるときは全てふたつ以上のものが同時に発生しなければ起こらない。だだのひとつでは起こらないと言う理論の実証である。即ちシンクロ(偶発による)によって起こると言う現象。九星…1白~9紫までの古代中国の考えを基に数字化して理論化する。ちなみに⑤は②と⑧系列の真ん中。①は④と⑦系列の真ん中。 それぞれことが起こるときはこの系列によって起こるということ。六月の⑥は安定を意味し③の生成に対し⑨の発展を調整してプラスやマイナスに導くことをする。この過程でことが起こると③・⑥・⑨が集まり関わってくるのである。実際には年月日・名前の画数を全部プラスして単数にした数字。

 では…と考え俳句をと思ったとき、これに似た現象はあるのかないのか。俳句には「取り合わせ」なる妙技がある。復本一郎さんによると「現代俳句大辞典」のなかで「季語の埓外に目を向けることによって多くの発想を得ることができる」と「取り合わせ」に触れている。読んだところで何のかかわりもないように思えるものが詩的に妙技されることによって 「取り合わせ」になり得る、との考え。

 ところで冒頭の私の句であるがこの「取り合わせ」なる妙味はと思ったときこの句が生まれたのだ。紙面いっぱいに広がる記事の文字は知識の羅列にも等しいほど余白すらないもの。知識のばら撒きばかりで身に付かないものはうっとしいばかり。そこへ六月という雰囲気は尚うっとうしい。このマイナスとマイナスの心をマイナスと捉えるのか。取り合わせのもつ妙味で詩のレベルにまで達するのかは私にもわからない。

                        (2006年6月7日記述)