児 島 庸 晃
第三イメージ論を述べていたころの赤尾兜子の句に私は、たびたび涙を流すことがあった。前衛俳句の最前線にいたようにも思われていた俳人だが私はそのようには思ってはいなかった。
いま思えば兜子はモンタージュ俳句の基本を忠実に実践していたのであろうと私は思う昨今である。ここに私の記憶に残る思いを述べた記述があった。
壮年の暁(あけ)白梅の白を験(ため)す 赤尾兜子
昭和46年「歳華集」の中に収録されたこの句。兜子の存在そのものを問いかける姿のなんと純粋で悲しく痛々しいことか。壮年期の始まりに汚れきったこれまでの人生を白い梅花に問いかける仕草こそ素直であり、より必死に生きてゆこうとする姿でもある。人間の一生を考えていてふと思うことがある。幼年期、少年期、青年期、壮年期、晩年期と経てゆく過程で生まれたままの素直な心はその社会経験を得てどれ程変化してゆくものなのか。とてつもない過去に戻り私自身のことを考えてみる。純朴な精神は多くの競争社会の中でずたずたにされ、打ちのめされ、放り出されて最後には自分自身を見失っているのではないか。私はその中をくねくねと曲がりぶっつからずに避けては通り過ぎて来た。だがいまどれ程の純粋さを保って生きているのか。眼前の咲き始めた梅の白花を見ながらずーっと思っていた。自然はその寒暖の厳しさとも闘いながら毎年開花の季節を迎える。咲き誇る自信に溢れその純朴は人の目を吸い寄せる。真っ白な純粋色はひたすらにひたすらに美しい。私は茫然とするだけであった。この句においても「壮年の暁」と「白梅」がモンタージュ言葉である。目視の言葉が「白梅」であり、作者の受けとった言葉が「壮年の暁(あけ)」なのである。ここにも第一イメージ、第二イメージへと変革の証がある。そして第三イメージとしての作者の主張「白を験(ため)す」の言葉を生み出しているのである。だが赤尾兜子は白梅の汚れを寄せ付けぬ白に自分自身の汚れを重ね、自分の汚れちまった傷だらけの白の方がもっと美しいのではないか…そう思った俳人だったのではと考えていた。この句の基本はモンタージュ理論にあったのであろうと私は思う。
盲母いま盲児を生めり春の暮 赤尾兜子
昭和48年作。当時私は兜子主宰の「渦」の同人であったが、眼前の兜子は句会などにおいてもこの句のような暗さは感じなかった。熱心で真剣であった。第三イメージ論を打ち出し青年作家を刺激していた。いまで言う取り合わせ俳句の基本ではなかったかと思う。第一イメージと第二イメージは非常に異質の物であり、両者のぶつかりによって第三の強烈なエネルギーを得るというものであった。それには俳句は二つの構成からなり、指示する部分と指示される部分があるという考えであった。この句は「盲母」と「盲児」がモンタージュ言葉であり、指示する言葉と指示される言葉になっっている。やがて数々の悩みを内に秘め鬱病になってゆく。毎日新聞の記者であったが、その定年の頃より重くなりその「渦」にも一句と記載が減ってゆく。そのころの作品である。そのころの西川徹郎氏は言う。「戦後の傷みに耐えきって赤尾兜子が生まれ、戦後俳句は方法とともに死に得る作家赤尾兜子を得て終るかもしれぬといえるかも」。このせっぱつまった徹郎発言を私も真剣に考えていた。この数年後赤尾兜子は阪急電車御影駅近くの踏み切りより電車に飛び込み自死する。妻の恵以さんに煙草を買いにゆくと家を出たまま帰らぬ人となる。この句における言葉の発想にも目視時のモンタージュがあった。
俳句思えば泪わき出づ朝の李花 赤尾兜子
昭和50年作。この素直さ、純粋さを見よ。俳句を思って泪を出せる俳人がいたか。詩人の足立巻一氏は言った。「兜子はたしかに句を思って涙を流すことの出来る詩人だ。わたしはその涙の質をひそかに知っているつもりである」。美しくきれいになろうとすればそれだけ鬱がすすむ。生命感だけの世界。それは生まれたままの姿だ。この句は「朝の李花」の目視より始まり「泪わき出づ」のイメージへと続く。ここで言葉がモンタージュされている。この時作者の心の中にはとてつもない緊張感が発生しているのである。そして作者の主張でもある「俳句思えば」の言葉に辿りついている。指示する言葉「朝の李花」と指示される言葉「泪わき出づ」がオーバーラップされて言葉の重ね合わせがある。これが言葉のモンタージュなのである。兜子は余りにも真面目で純粋すぎたようにも私には思える。最後の最後まで作者の主張がモンタージュの思考の中より生まれているのである。
いま私的な句の思いを書き綴ったがこのような思いを私へ発信するその基本には、やはりここにはモンタージュの基本理念が確実に実行されてきていたようにも私には思える。その自らの素直さ故に自己に悩みを問いかける姿こそ赤尾兜子そのものだった。