私の存在が確認出来なければ

       「私自身」の存在を確認しながら人は生きている

               児 島 庸 晃

 句を作ることの意味や意義は何なんだろう。…ここ数日私は、このなんとも漠然としていて、どうにも訳のわからぬ思考にとりつかれていた。考えても思慮深く思い巡らしても一向に考えが前進しなかった。ところがである。ある日だった。思いもしてはいなかったのだが、それが見事にその思考を解く機会に恵まれるこになる。それは…「現代俳句」9月号に目を通したときだった。そこには次の文章が書かれていた。

 句会で全く振るわなかった日。しょぼりしている私に「貴方は貴方らしい句を書けばいいのよ」と言って下さった先輩がいて救われた気持ちになった。「自分らしい句とは何か?」という命題を突き付けられていることに気が付いたのだった。それは「自分とはなにか?」という根源を問われている事に他ならない。

この文章は第三十六回現代俳句新人賞受賞者のなつはづきさんのことばである。以下の文章は省略するが、なつはづきさんが思考の中で模索して得たものは、結局のところ、「今の自分をなるべく正直に書こう…」だった。いま私は思うのだが、結局のところは、今生きている私自身の存在確認のようにも思えるのだ。そして私が私であり続けることの大切さでもあるのではないかとも思う。同時に言えるのはそのことは句を作ることの苦しみを十年身を持って味わってきた作者だから言えることなのかもしれない。

   日傘閉じここに暮らしがあった海   なつはづき

第三十六回現代俳句新人賞受賞作品より。生活の深部までも踏み込んで物を見通す時の私の目の存在を、これほどまでに鋭く見詰める確かさの素晴らしさ。作者の内に篭る存在感は正に私自身の存在感でもあろう。「暮らしがあった海」と言う何気ない俳句言葉の真実には「あった」と言う確かな実感、それはしっかりとした作者自身の私言葉でもある。ここには私が私であるための存在感が溢れているようにも思える。俳句は私自身の存在感の確認がなされていなければならないのではないだろうか。

 なつはづきさんは次のように自分自身を纏めて作者自身を完結させてもいる。

つまらないプライドや高揚感欲しさに力むこともあろう。身の丈に合わぬ欲望と上手く付き合っていかなければ自分が自分であることを簡単に手放してしまう。この先、何度も悩み立ち止まると思うがまた歩き出せばいい。何度でも。自分に嘘をついて逃げ出さなければ何度でも歩き出せる。今までもそうしてきた。これからもそうするつもりだ。

 貴重な文章である。なつはづきさんの思考そのものには、なんのために俳句を書いているかの意味や意義が感じられて貴重な言葉となった。

   身体から風が離れて秋の蝶    なつはづき

同じく受賞作品より。自己の存在確認が明確になされた作者のみがここにはある、作者の個性的な作品である。嘘のない自己の立証が「身体から風が離れて」として俳句言葉になった。 この発想は逆発想なのである。普通は「風」が主体なのだが、この句は「身体」が自己主張の場所なのである。この「風」はもともと作者が保持して置きたい、心の中に置いておきたい一服の清涼感なのだが、いまは何故か「身体」から逃げて行くのだ。その「風」に乗って「秋の蝶」まで作者である私から逃げて行ってしまう虚しさ。ここにある私が私であるための私自身の存在感の寂しさ。…いま作者は俳句にして置かなければならない必然に迫られていた事が私には充分に感じられるのである。俳句している意味や意義を私なりに感じることが、この句を知る事により得られた瞬間だった。

 ここで私が何時も思っていることなのだが、各人には、それぞれの日常生活があり、そこにはその状況に応じて対応するときの流れの中における歪みが生じてくる。対人関係である。このときに縺れが発生する。この対人関係により感情が生まれるのだ。私達の心にある「ひだ」に対人がひっかかり離れなくなる。その感触を、私達は「感情」と呼んでいるのだが。俳人は微妙に心に「ひだ」を持って物俳句も事俳句も目視して作ってきたのだ。このときに個人によって好きな句、それほど好きでもない句の区別が生じることになる。感情そのものは誰かに共感することであり自分自身の経験と重ね合わせることをする。このことによって感情が生まれる。良い句、それほどでもない句の選句は、俳人個々の経験と重ね合わさって決定されるものである。これは心に関わる「ひだ」に自己の存在があること、つまりは俳句作品に作者自身の私の存在の確認が求められているのである。

   すいすいとあめんぼバッハモーツアルト  山浦恒子

俳誌「歯車」376号より。作者の願望が目視の果てに心の艶へと変貌する句である。「すいすいとあめんぼ」は作者自身の化身なのかもしれない。それは作者自身のある日の気持ちでもあったのかもと思う。それは「バッハモーツアルト」の俳句言葉となる。その日の「すいすいとあめんぼ」の俳句言葉は作曲された調べに乗ったかのように泳ぐ、その気持ちは作者自身の心の艶の最も強く表出された状態なのである。俳句には心の艶が大切にされていなければならない。…言葉では何とも説明しにくい気分や情趣を、具象的に表現する…という部分が、俳句では特に大切なのである。作者の心の艶が具象的に表現されて形にされたものが俳句なのである。ここには作者自身の私の存在の確認が求められているのである。この句には、素直なその日の作者自身の私の気持ちの存在が力強く表出されていた。何故俳句を作るのかの意味が感じられる句でもある。

   みちびかれ来て万緑の中に立つ   宮腰秀子

俳誌「歯車」383号より。心の艶は作者自身の心の豊かさでもある。心に物事の全てを受け入れる幅を持ち合わせていなければ心の艶を生むことは出来ないのだ。この句、「みちびかれ来て」と思考する従順な素直さが、この句における心の艶なのである。心の広さはこの句を知り得た人に美しい艶を与えて心を優しく暖かく包んでくれる。「万緑の中に立つ」は日々の生活の中に一抹の不安や寂しさがあったのかもしれない、そんな時の心の支えの言葉なのだろうと私は受け取ってしまった。ここには作者自身の意思の思考が強くあり私自身の在り方の確認が、私が私であり続けることの大切さの自己確認として存在するのである。…俳句を続けてゆくことの意義を作者はこの俳句をもって力強くし次へのステップへと踏み出してゆけることを思ったのであろうと私は思った。

 俳句は私性の文体とよく言われる。形式が五・七・五と言う特殊なリズムの言葉の構成ゆえのムダ・ムラ・ムリの許されない文芸だからである。小説などの散文は説明言葉が補足されているのだが、それほどに適確な言葉選びがなされねばならないのである。このムダ・ムラ・ムリの語尾を捩ってダ・ラ・リとも言うのだが、これは緊張感のない現象を例えにしての言葉である。俳句に私性が含まれなければ、このダ・ラ・リになるのだ。そこで句のなかに私の存在の確認がなされなければならないのである。私が私自身であり続けるための確認が大切なのである。私性の文体と言う、この単純そうに思える思考になれるには心が何時も開放して素直になれていることが、私が私であり続けることの私の存在なのである。

 次の句を見ていただきたいのだが、純粋に私の存在を自らに問い続けた俳人がいる。私が私であり続けることの大切さを心に、充実に至るまでにも尽くす、それら全てを俳句作品へと重ねていた俳人がいた。赤尾兜子である。

   俳句思えば泪わき出づ朝の李花    赤尾兜子

昭和50年作。句集『玄玄』より。これほどまでに素直に、そして純粋に俳句に私を込めて私が私であり続けたいと句を思考していた兜子。これら全てが俳人の生き方であったようにも私は思っている。この数年後、兜子は阪急電車御影駅近くの踏切りより電車に飛び込み自死する。妻の惠似さんに煙草を買いにゆくと言って出て行ったまま帰らぬ人となる。「俳句思えば泪わき出つ」と自然の思考のままの動作は嘘でない俳句言葉である。この句を作った時点で兜子は、既に鬱病になっていたのかもしれない。その当時、私たち青年と合って話をしている日常の行動や話の中には鬱病の気配は感じられてはいなかった。唯純粋に俳句を思い、俳句に涙を持って向かっていたことだけが私の脳裏にはあった。詩人の足立巻一氏は言う…兜子は句を思って涙を流すことの出来る詩人だ。わたしはその涙の質をひそかに知っているつもりだ。純粋さとは何なのか。それは句の中に私の存在が私であり続けることの確認が出来た時であろう。「俳句思えば」と思考の中に俳句言葉となるほど「泪わき出づ」なのである。美しくきれいな涙にすればするほどそれだけ鬱がすすむ。私の存在確認を俳句の中でしようとしていた俳人兜子。兜子はあまりにも真面目で純粋過ぎたようにも私には思える。兜子は俳句の中においてまでも私が私であり続けたいとしていたのであろうか。純粋にひたすらに私の存在確認の出来得る作品は、それを知り得た時よりずーっと感動を与えてくれるようにも私には思える。それは何によりもその句に緊張感が含まれているからであろう。

 一句の中における私の存在感の在り無しは言葉の表現力に依存するところが多いとは思う。日常の対人との関係の中に感情が発生するからなのだろうと思うようになった昨日今日の私である。…そのような毎日であるのだが、未だに私の記憶に収められていた句がある。

   もう何も言わぬ冬日の車椅子   森須 蘭 

句集「蒼空船」(2010年)より。私の姿が句の中に登場していないのに私の存在が確認出来る俳句である。俳句言葉とは不思議なもので目視の確かさに私の思考が感じられるものである。この句がそうである。「もう何も言わぬ」の俳句言葉には作者の思考方向が示されていて、ここには私の存在があり、私が強く主張する意思が言葉となってある。この「もう何も言わぬ」の俳句言葉は社会環境の中における対人關係によって出てきた感情言葉なのかとも私は思った。「冬日」の中に置かれていた「車椅子」への作者の主張である。作者の暖かい愛情溢れる視線は私が私であり続けることの存在確認でもある。強い愛情願望が私の存在確認の貴重な証明となった。

 俳句には緊張感がいる。その句を心に取り入れることは容易な事ではないのだが、俳句は目視に始まり、そこで得られた感覚実感を心に呼び込むもの。この時に緊張感が句の中に込められていなければその句を読む者の心にその俳句は入ってはこないのだ。ここで大切な事はその句の中に私の存在が確認出来なければ、その俳句は読者の心には入ってはこない。緊張感がないからである。俳句が私性の文体と言われる所以である。