私でしか表現出来ない物を見る心

          日常の生活状況の中で私を中心とした視点

                児 島 庸 晃

 文学作品に作者の個性を際立たせて表現することを私性の文体と言うのだが、俳句にもそれに類する表現スタイルがある。日常の生活状況の中で私を中心とした視点に全てを集約させ物事を捉える感覚作品である。どのような状況下にあっても、私の目と心を通しての表現である。…そこで最も大切になってくるのが、私でしか表現出来ない物を見る心を言葉に変える事である。普段はあまり思考していることはないだろうが、作者独特の感覚言葉が俳句を書く時には必要になってくる。…造語の有無が俳句を深みのあるものへと導くのである。 

 造語とは今までに使用されていない言葉を作者が独自に生み出した新語なのだが、それだけに理解しにくい言葉になりやすいのである。俳句だけに限られた言葉ではないので、私たちの身の回りには一杯ある。所謂、流行語と言われるものが、その言葉に類するのだが、ぴしっと決まってしまえば大変な人気になる。はたして俳句ではどのような形をなしているのだろうか。 

   春愁とたわむれている指も水   高岡 修 

「現代俳句」平成28年9月号より。第71回現代俳句協会賞受賞者。この句、ことばの造語が理解しにくい句。「指も水」は二つの言語が合体して一つの造語を作っているのだが、どういう状況なのかが分かりにくい。「指」も「水」もひとつの言葉としては理解出来るのに…。言葉の抽象表現なのだが、ここには心理表現の巧みな仕組みが隠されているのである。作者が見ているのは「指」ではなくて「水」なのだろうと思う。視線は水面に向けられていての自己体験を含めているのだろうと思う。その自己体験とは「指」を水面に入水させてのもの。作者自身がたわむれて「春愁」を感じているのであろう。ここで大切なのが、この句におけるキーポイントを作者が設定していることなのである。それが「たわむれている」の言葉なのである。このように理解し難い句には、どこかにポイントが置かれた言葉の使用があるものなのである。造語を使う場合は、一句のどこかに補正言葉を置くことが重要であることがわかる。この補正言葉の使用があることにより、理解しにくい言葉の意味がわかりやすくなるのである。

 その補正言葉だが、いろんな言葉で登場する。二句一章形式で使用されているのが次の句である。

   空耳のかたちたとえば花水木   小森谷 正枝

俳誌「歯車」370号より。ここでの造語は「空耳のかたち」。この言葉通りに読者が受け取ると理解が苦しい。でもここで補正言葉が準備されているので納得できるのだ。その言葉は「たとえば」。この句は二つの情景が別々にあり、作者の意識操作により、一句に纏められているもの。この情景を結びつけることにより造語のわかりにくい部分をわかりやすくしてあるのである。造語の「空耳のかたち」を読者に理解してもらうためには補正言葉がいるのだが、それが「たとえば」の言葉なのである。造語使用には、この補正言葉が必ず必要とする所以である。

 次の句はもっと複雑でややこしいが、作者の意思がしっかりしているので、造語の扱いが複雑なのにもかかわらず理解出来る。

   春惜む森の空気に骨のあり   玉木  祐

俳誌「歯車」370号より。 普通は「空気に骨のあり」とは感じないし思いもしない。この部分が造語のもっとも面白いところなのである。空気は見えないし、感じることも出来ない。なのに句にしてみると、見えているようにも思える。否、作者には見えているのだ。そして私たちもこの言葉に誘い込まれてそのように思ってしまう。何故なのだろう。ここには見事な補正言葉が、作者の巧みな操作によって準備されていたのだ。上五音の部分の導入部になにげないふりをして準備されていた。その言葉とは「春惜む」。…この部分に「春惜む」の補正言葉が用意周到に準備されていたのである。誰にでもわかる生活用語として巧みに補正言葉が置かれていた。

 ただ、ここで造語を作り出す時に考えなければならない事がある。補正言葉が置かれていても、尚も理解出来ない句に出会う事がある。日常の現実生活の中で私の扱いによってはその句が「虚」になりはしないかと言う事を思考してしまう。「虚」ではどのように巧みな造語を用いても理解が苦しい。造語が異常で風変わりであればあるほど、異質になり、現実生活とはそぐわなくなる。虚と実との狭間でもがき苦しむ句である。例えば次の句などである。

   蛇われとなりて窺ふ水鏡   河原枇杷男 

総合俳句誌「俳壇」二〇〇五年8月号、戦後六〇年の俳句表現六〇選より。この句は比喩の部分が造語となっているのだが、その部分をどのように読者が受け入れるのかとも思う。その部分の造語とは「蛇われとなり」。「実」のイメージではない。「虚」なのだが、「虚」にしては私性が濃くある。不思議な魅力を有する句なのである。そのイメージするものは私と、もう一人の私との微妙な関わりを読者に問いかけているものなのである。つまり作者である私が、作者ではない時の私を問い詰めているのである。強いて言えば「虚」としてと思われないような造語を生きた言葉に変えればいいのではないかと私は思う。この句には造語を補正する言葉はある。「窺ふ」が補正言葉になっているのだが、この補正言葉は「虚」の状態のままなのである。「実」の状態として表現すればわかりやすくなる。例えばだが、「窺ふ」を「見詰める」とすれば現実感が出て日常性が濃くなり理解しやすくなる。「実」の状態になる。このように造語を活用させるには補正言葉を現実味の濃くある言語にしなければ、「虚」になってしまう。俳句そのものが理解しずらくらくなる。補正言葉とは、言語の通り造語をわかりやすくなるように補う術なのである。だが、それだけに抽象語や虚像の言葉はイメージを混乱させてしまう。

 もっとも現実に即した理解しやすい造語もある。造語の基本的考えはポエムなのである。造語といっても普通に感じたままに新感覚を求めても詩語にはならない。だが、この詩語と言えども造語を支える補正言葉がしっかりしていなければ俳句はバランスを崩し転けてしまう。詩語を強くする補正詩語が如何に施されているかによって句そのものは生き生きとして心を射るのである。

   レモン夢見て 魚 すこし踊る   山口砂代里

俳誌「青群」39号より。この句のどの部分に読者を魅了する言葉が含まれているのだろうかと思った時ポエムを見つける事が出来た。その言葉が、造語の魅力なのである。その造語とは…レモン夢見て…なのであるが、レモンは秋の季語でイメージとしては詩情を深く感じる。秋の清涼感の爽やかさを作者なりに感受しているのであろう。このように私が感じている事は普通の感覚である。どこが凄いかと言えば、ここに使用されている補正言葉としての「すこし踊る」の存在なのである。この作者は短歌も書いているのだが、人の心の流れを上手く操作する術を心得ていて、補正言葉の深みを強くする詩語への変換がなされている事であった。作者は魚が踊っているように感じ、魚の喜びを表現しようと作者自身も喜び、魚の心を受け入れている。「レモン夢見て」と想像を広げている。そこでこの句の凄さは補正言葉の詩語にアイロニーを込めていること。よく考えていただきたい。普通であれば補正言葉にアイロニーは含めないのである。目視する私を見つめているもうひとりの私がいてアイロニーが働く。踊っている心は「すこし」だけなのである。全てを喜んで見ている作者ではなかったのだ。補正言葉に自己批判ともとれるアイロニー。ここには読者を取り込む魅力ある補正言葉が施されてあった。

 アイロニーと言えば、私を驚嘆させた句がある。比喩の素晴らしさが造語をなしているのに驚いた思いである。私の二十代のころだった。

   皿割れて百の凶器となる寒夜   諧 弘子

諧(かのう)弘子句集『牧神』昭和63年より。諧(かのう)は伊丹三樹彦が育てた俳人だが、当時二十代後半の新人だった。青玄新人賞受賞後、楠本憲吉主幹「野の会」の発行に伴い移籍するのだが、この句は中七に見事な造語を置きアイロニーとも言える作者の思想を置いたものである。単に比喩のみならず緊張感を造語に込めたのである。寒夜に割れた皿の破片が宙に舞う、それだけのことなのだが、「百の凶器となる」となると状況が一変する。だが、この句にも補正言葉が句の中で重要な働きをしている。…「皿割れて」と補正。しかも補正言葉は、より単純でなければ造語を引立てはしないのだ。造語の言葉が特異であればあるだけ補正言葉は単純でなければならない。それは造語の重みを読者に知らせるためであった。補正言葉をできるだけ軽く扱うことの工夫がしてある。「皿割れて」と状況説明だけの単純な言葉を置く事であった。

 造語とその造語を理解しやすくするための作者なりの工夫をいろんなバージョンの異なるなかで提示して述べたのが、私の考えであった。ここで思考しなければならないポイントが補正言葉としての詩語の扱いであった。補正するための言葉としての詩語は感覚だけでは、簡単には施しきれないこともある、と言う事をみなさんも知ることができたと思う。

 しかし造語表現をするのには、その造語だけで一句が成立しないことも知ることができたと思う。そこには一対になって付帯する補正言葉のあることも知ったと思う。流行語と言われるものは。日常の中にはそれぞれの思いが詰まっているのだが、全て造語である。それほどに新鮮な言葉の登場を待っている。新しい言葉を待っているのは俳人だけではない。素晴らしい造語は心を豊かにして楽しくさせてくれる。今後どうのような造語の道が展開されるのか考えるだけでも楽しい。

 造語は作者本人でのみ作成可能な詩語である。だが、作者本人でなけらば理解出来ない言葉の造語もある。だが…そのような新語では詩語にはならない。流行語と言われる言葉の魅力には、新鮮さがいるのだが、その言葉が大衆の中にあっても、品位が保たれていなければ詩語としての造語の意味をなさない。毎年流行語大賞が発表されるが、全ては造語である。ここには人間の叡智が込められている。だが、流行語の全ての造語が俳句作品にはならない。俳句には詩語としての品位そのものが、作者本人を表示するからであろう。言葉は新鮮なほど人の心を開く。開きながらも感情をほぐすものである。しっかりした造語は、今後発展してゆく俳句の道でもあろう。