心の浄化された句…それを純粋俳句という

 何故にいまも俳句を作すのであろうか。…そう思ってひとり静かに珈琲を飲んでいた。真昼の我が家。秋の日差しが部屋に置かれる午後。私の心が最も純粋になれる時間でもある。身も心もばらばらになってゆく私を、私なりに、それも密かに私を取り戻す。すべての心が浄化されてゆく時間である。謂わば句を作るに一番相応しい私になれている時間なのである。そして私は、畳に置かれた秋日を瞳に入れながら、亡母を思い出していた。

      けしきが

      あかるくなってきた  

      母をつれて

      てくてくあるきたくなった

      母はきっと

      重吉よ重吉よといくどでもはなしかけるだろう

これは八木重吉の詩である。この詩のタイトルは「母をおもう」。そのときである。私には思ってみたこともない或る思いが目覚めていた。純粋性とは、人間の美しさとは、私は私自身に問いかけていた。

 この文章を俳句に戻すが、俳句を思考するときに、私はこの八木重吉の心の有り様になれるだろうか、と思った。私は私の過去の俳句を思い、なんとくだらない俳句の数々であったのかを恥じていた。俳句は人間の心を浄化させるものでなければならないのだろうとも思った。

 そうは言っても、心の浄化は出来るものではないのだ。汚れきった社会、世の中である。日常の生活の中で個人などは消耗品である。心を正すことなど出来るものではないだろう。だが、日常生活では真当な心を貫く事ができなくても、心を正すことは出来る。それが文芸なのかもしれない。俳句なのかもしれない。…そのように思った私であった。それは私を納得させる句に出会った時からであったようにも思う。

   朝顔やみんな大人になった家  水野照子 

第五十二回現代俳句全国大会大会賞より。この句における素直になって過去を思いふりかえらせてくれる言葉「みんな大人になった家」には作者の人間が感じられるような表現になっている。家族一家の絆とも言える輪の中にある一本の糸のような繋がりがここにはある。俳句言葉の暖かさは、作者のヒューマンな心でもあろう。この純粋に人生を蘇生させる心の奥にはいろんな一言では語れない過去の重い苦しみがあったことさえ暗示させるものがある。だが、そのような重い過去の言葉などは何処にも表現されてはいない。何故だろう。一言でいえば、作者の心が浄化されているからである。人間の心とは事ほど以上に暖かいものなのである。句を作す時には素直になり、心がきれいになっていなければならない。浄化されていなければならない。

 それはソロピース(個体)言葉の組み合わせ、配合の上手さで可能になり、句の中に純粋性を込めることが出来る。

   とうすみはとぶよりとまること多き   富安風生

「俳壇」2004年8月号より。この実景、まことそのものである。何の人為的な操作及び工作もない。しかし作者の瞳の中には、しっかりとした心を捕まえていたのだ。それがソロピース(個体)言葉と言う、心中での工夫であった。その俳句言葉とは「とぶよりとまる」。この実景実写はカメラのレンズで捉えたもののようにすこしもごまかしのできないもの。下手な操作をするとただ単なる何にもないそこにあるだけの景色になってしまう。「とうすみ」とはとうすみとんぼ(灯心蜻蛉)イトトンボの別名であるが、このごく普通の光景を人の心に呼び込むように仕上げたのが作者の純粋な真心であった。これほどまでにも実景を美しく見詰めることの出来る汚れてはいない作者自身の心であった。「とぶよりとまる」と飛ぶ事も出来ぬほどにも疲れきっているのだろうかと私は思ってしまう。ここで大切なのがソロピース(個体)言葉の補助作用としての「とうすみ」の巧みなバランスのとれた組み合わせがあること。「とうすみ」の小さく小さく動く飛ぶ動作はか弱いもの。ここに作者の浄化された心が補助されての美しさがある。心が汚れていたのでは「とうすみ」の生体は見えてはこなかっただろう。浄化された作者の本心はソロピース(個体)言葉の補助があってのものである。 

同じように心の浄化された視線の素晴らしさは次の句にも伺える。

   直角に曲がれなかった蝸牛   鍬守裕子 

「歯車」377号より。句を作ることの意義や目的が何のためにあるのだろうと、しきりに一途に思考したことはあるだろうか。この句を読んだときから、私の頭の中は混乱していた。この作者の心の優しさを一重に思っていたからである。これらの優しさは何処からくるのだろう。作者本人の心中を洞察していた。…つまるところ作者のみが保持している汚れていない心、浄化された心なのだろう、と結論を得た私であった。その俳句言葉とは「曲がれなかった」。万感の思いを込めて「蝸牛」の不器用な真面目さを瞳の奥に、この作者は捉えていたのだ。まるで自分の姿を見るように思ってしまったのだろうか。でも、普段から心が浄化さえていなければ瞳には入ってはこないだろう。ソロピース(個体)言葉の浄化されることの大切さが、純粋俳句を生むことになったのであろう。句を作る時にだけ頑張っても出来るものではない。日常生活に傷つき、心体共にぼろぼろばらばらにされて、いろんな事に戸惑いながら日々を生き延びている私にはとても強く細かく理解できた。これが俳句を作っていることの意義なのかもしれない。

 そういえば俳句を書き続けていることの大切さと言えば、何だろうと思っていると、以前に感銘を頂いた句を思い出していた。私の頭の中にまだ残っていた。 

   草笛を吹いている間は大丈夫  高橋悦子

第9回現代俳句協会年度作品賞「シュトラウス晴れ」より。この句は口語発想の形式なのだが、日常語使用の口語体でのものではない。それは心の取り入れが散文化されてはいないからだろう。その根拠は、日常生活意識ではない行動に伴って表れる感情の変化が普段の行いとは異なったものとして発想されているからである。分かり易い表現をすれば心が浄化されているからなのである。その俳句言葉とは「吹いている間」。この俳句言葉は作者自身が自分自身へ向かって確認して心を浄化させている言葉なのである。ここには人間としてのあるべき生活意識態度が汚れてはいないこと、そのこと故に「大丈夫」であると自己発見しているソロピース(個体)言葉の浄化がある。作者は現実社会の中で常に自分自身を浄化させつつ自分自身の心を磨いて生きてきたのであろう。俳句の純粋性が俳句を長く作り続けてゆくことに如何に大切であるかを思わせてくれる。

…だが自分自身を俳人の心として保持してゆくことの難しさは、作者本人が一番よく知っている。大変なことなのだ。

   にんげんに生まれたことを花に告ぐ  和田悟朗

句集『人間率』(平成17年8月)より。この句は作者自身が自分自身に向かって素直になれる心の程を句に作したのだと私は思った。いろんな場でいろんな句を求めてきた過去に戻してもこれ程率直に自分の真心を正直に見つめた俳句を私は読んだ事はない。これぞ人間の純粋性を「花に告ぐ」だったのだ。作者本人の何時もの詩精神の発露であったのだろう。そして「花に告ぐ」の言葉はソロピース(個体)言葉へと発展する過程での自分自身の苦しみを抜けきった状態でもあったのだろう。人間本人に生まれたことへの感謝の気持ちであったようにも私は思う。「にんげんに生まれたことを」は普段の生活の中での真面目に生きている自己を正す俳句言葉の苦しみと挑戦がこの句にはある。俳句の純粋性は一俳人の生活態度まで変革させるものであることを私は知る事になった。

 

 日常生活の毎日にあって何でもないところから、何でもあることを見つけ出さねばならない俳人であることの認識は、よほどしっかりしていなければ、何にも見えてはこないのである。よく聞く言葉に…句が全く作れないのよ…と言う人に出会うことがある。よく聞くと…句の素材が見つからないと言うことなのである。もとになる句の材料となるものなのだが、句を作る意欲は、いくら沢山いっぱいあっても出来ないのである。何故だろうと思考したことはあるだろうか。目視の彼方にある自然や物は数え切れないほど存在しているのに、と私は思う。

 それは物や自然は歴然と、その場に定着しているけれども、それを見ている人間の心は変革されているのである。私達は、日々の忙しさの中にあって、心の品質が壊され、砕かれ、汚れきっているのである。物や自然の姿がごくあたりまえの何でもない事にしか見えないのである。それ故に何事も新鮮な姿には見えなくて瞳には飛び込んでこないのである。

 ここで大切なことは、何時も心の中を空白にしておくことがいるのである。汚れのない心にして純粋にしておかなければならないのである。心が汚れていれば何も見えてはこない。今日の時代に純粋俳句の存在感が強められている理由である。俳句の中にこめられている純粋性こそ、その作者の生きる力でありその俳句を読む人への生きる力へと発展してゆく。

   あやとりのエッフェル塔も冬に入る  有馬郎人

句集『立志』(1998)より。「天為」主宰、元東京大学総長、元文部大臣。句の有り様を思う時、俳人は何を考えているのだろうかとも思う。そこにある情景からの目視を始めるのか、それともその雰囲気の情感から、心を開くのか、を私は思っていた。…この句は、ここに子供がいるのであろう事は想像出来る。そして子供と一緒にその傍には母親もいるのかも、と私は思ってしまった。だが、親も子も俳句言葉としてはない。あるのは情感だけである。つまりこの句の作者は情感から心を開いているのである。その言葉と言うのは「あやとりのエッフェル塔」。そのもののもたらす情感であり、その柔らかで暖かい抒情のソロピース(個体)言葉であった。でもこの抒情は普通の人では見えてはいないだろう。「冬に入る」の感覚言葉は作者自身が自分自身の身体を通して受け取ったもの。ここにはソロピース(個体)言葉としての「冬に入る」を純粋に受け取れるだけの準備としての心の汚れがない心中になっていたのであろう。しっかり目視を定め物に向かうときどれだけ純粋になれる心を保持していられるかに俳句の品格までが求められる。

 素直になっている自分自身。無の心になりきれている作者自身。現実の日々の生活の暮らしの中においては、自分自身の存在を忘れて過ごすことなど出来ようがない。だが、俳句の世界に身を委ねているときは無の心境にもなれる。純粋に物事を見詰めることは出来る。それにしても普段から心を磨き、その心を空白にしておくことの大切さを思う。その純な心を保持していられる俳句の重みは人の心を掴み、人を優しく暖かくやわらかく包み込む。純粋俳句の存在は貴重である。