感動を知らない日々を過ごしている私になっていた

 

                           街角やのっぽもちびも夏の草  児島庸晃

 感動するって…どんなことなのか? 日々の生活や日常の出来事にどれだけの感動を覚えることがあるのだろうか。考えてみれば…ほとんど感動を知らない日々を過ごしている私になっていた。

 「感動が先立たねばならぬ。感動は『ああ』という叫びである。事物と出会って、思わず『ああ』と叫ぶその叫びから、俳句は生まれる。俳句の感動は事物の上にではなく、事物と事物との結合の上に成立する」。ここには『感動』がなければいくら上手い結合がなされていても、それは報告にすぎない。『寄物』の心がなされていても『感動』の心が伝わらなければ俳句作品にはならない。これゆえに『寄物陳思』を誓子は諭している。

 夏草…暫く見とれていてやっとやっと感動らしきものになる。1時間ばかりも見ていた。このときやっと私自身が純粋になりきれていたのだ。この感動する心は即ち純粋になりきれた私にほかならない。俳句を作るときだけ何かに感動しようなんてそんなもんで良い句が出来るわけがないのだ。のっぽの草も、ちびの草も、そんな私を見ている。

私は見られている。