川柳にはロマンや思想や生き方があった

        川柳人…時実新子さん逝く(2006年7月19日記述)

           新子さん訃報その午後しぐれ雪  児島庸晃

こぼれるような笑顔はついに見られなかった。川柳作家時実新子さんの訃報は文壇を吹き抜け、その訃報のもたらす衝撃は川柳にとどまることはなかった。それは川柳といえども新子さんの作品は文学であったからだ。作家田辺聖子さんはその言葉のなかに真心を込めて語る。「川柳に女性のパワーを取り入れ、句品の高い新たな芸術として実らせた。開拓者として逆風もあったはずだが作品同様いつも明るく毅然としておられた」。川柳は文学なのだとみとめさせるまでの努力、それは「川柳は私です」といつも話して聞かせることを続けた結果なのだと思う。私が何時も語っている短詩形は私性の文学なのだと思うことの改革者でもあった。

   君は日の子われは月の子顔上げよ  

   足裏に火を踏む恋のまっしぐら

10日午前5時15分肺がんのため死去。78歳であった。18歳からの川柳への実作は「ふあうすと」「川柳研究」に参加するも満足できず独立宣言。1975年個人季刊誌「川柳展望」創刊。後に平成7年阪神淡路大震災後の神戸より「川柳大学」を創刊。そのエネルギッシュな行動に誰もが驚嘆した。私は昭和42年ごろより新子さんを知っていたが、それは俳人としての新子さんであった。俳句結社「青玄」姫路支部の句会へ来られていた頃で俳句を作られていた頃の思い出が蘇ってくる。それ以後の川柳作品に俳句的な要素がかなり見られていて、これまでずーっと俳句だと思ってきた。当時伊丹三樹彦の指導を受けていて非常に熱心な一人であったと記憶している。1963年初句集「新子」を1987年には「有夫天」を出すも、いずれも私性の強くて私の生き様のあり方を示す作品であった。ここにはロマンや思想や生き方やを問いかける自己の開放まで準備されていた。1977年から2006年7月まで神戸新聞文芸欄選者。

   白い花咲いたよ白い花散った

上記の句が遺書代わりになったようでもある。2005年からの病室での作品発表となるも新聞選者としての眼は衰えることはなかった。私もここへ応募して入選になったことが何回かあった。最後まで川柳は文学であると主張して彼の世へと旅立たれた。その心はいま弟子でもある渡辺美輪さんにより受け継がれてゆくことだろうと思う。