俳句を作ることのメリットとは

 

             俳句は…心遊びで心を癒す     

 時々ではあるが何故俳句を作っているのか、と自問自答している私に吃驚して夢より覚めることがある。夢より解かれて現実の世界に戻っても、しばらくは私を責めている全く別のもう一人の私が居て、思考の続く時間に悩まされることがある。これまでの長い月日に会得した日常のなかに何の不思議も思わないで俳句を作ってきた私である。だが、ときどき俳句を作ることに何の意義があるのだろう、何の価値観があるのだろうと思ってきたことも事実である。生活に追われてきた多忙な日々も必死で専念する俳句であった。

…何故、俳句を作るのか。それは私自身になれる、私自身を取り戻せるから、と言う俳人の言葉。なるほどと思う間もなくその人は言う。

…生きるのに疲れた時、俳句は癒しの栄養素になります。真剣に物事に集中して、毎日の現実と闘っている俳人の事を思っていた私。俳句は、日日の生活の糧とも、或いは生きていることのメリットとも。そのように思考してみると、明日への力の源とも、俳句を作ることは意味をもっているのかとも考えだした昨今である。

 そこで、生活の癒しの栄養素であれば、何も俳句だけが特に優れたものでもないだろうにとも思う。一行詩や散文の一行にだって同じような味は含まれている筈。どうして優れた心の癒しが俳句にはあるのだろうかと、私自身に問い詰めたいと思ったのが、この稿を書きたいと思ったきっかけである。

 一口で言ってしまえば散文は意味を求めるもの。その意味を細かく追求し、そのことを深める。より解りやすく人の感情を探り出し心に取り込むのが主眼の文体を作る。私は小説も書いているが、小説のなかでの意味の大切さを知った。神戸新聞の小説部門で5回入選したのであるが、その時の選考の基準が意味の重要性であったと感じたのである。

 一方、一行詩は作者の思想を意識的に高めて芸術的に発展させる文体である。これは短歌や俳句へとつながる文体でもある。ただここで言えることは一行詩には意味を求める要素が強くあり、ここが俳句とは根本的な相違点である。…故に一行詩は読んだ時の印象は強くある。だが、この感覚は一過性のものである。その心の思いはすぐに消える。心中を通過してしまえば消えてしまい後には何も残らないのである。それは意味の要素を多く含んでいての説明の文体だからである。したがってそれ以上の広がりと言う展開へは繋がらないからであろう。俳句は寄物陳思である。ここには美意識を強く求める心がある。私が…そのことを強く感じたのは鈴木石夫の句であった。

   風峠越え彼岸花悲願花  鈴木石夫 

句集『風峠』(平成8年8月)より。この句は言葉遊びのように思われるだろうが、私にはそうは思えないのである。むしろここにあるのは…心遊びである。これこそ寄物陳思である。寄物陳思とは感情的な言葉ではなく「物」で心を伝える基本に沿った表現。石夫の句には具体的な「物」を見て、心そのものを表現。「物」を導き入れ感情を抑えていることが理解できるのである。この句「彼岸花」は作者にとっては「悲願花」でもあるのだろうと思われる。いろんな思いの中における心の揺れが、心遊びとなって定着したのだと思っている。そして美意識と思われるのは心を美しくしての思想でもあったのだ。

   幽霊の集会があり 招かれる  鈴木石夫  

「歯車」311号鈴木石夫追悼号より。心遊びと言えば、これほど自由に遊んで気持ちを精一杯開放している句も珍しいと言える。日常の諸々にぶっつかり、苦しい思考の中で切羽詰まった時には思いもよらないとんでもない事を考えてしまうものである。幽霊の集会へでも行ってみれば何かが開かれるかもしれない。全く現実には存在しないことを思ってしまう。即ちこれが心遊びなのである。現実には存在しない幽霊が作者の目視のなかにはあるのだ。希望または願望として強くある。心の中の鬱々とした諸々が開かれるかもしれない。招待してもらいたいと切に思い、願いがかなえられ招かれる喜びにとっぷりと浸り切る作者。普通であれば、この句は寄物陳思とはならない。だが、作者の目視の中には幽霊が存在し見えているのである。幽霊の集会に招かれると信じ、そのように思うていられる事の心の美しさは大切であった。作者固有の美意識である。作者は心いっぱい癒されているのである。現実の世界では体験出来ないものが心遊びによって遂げられたのである。 

   くちびるを花びらとする溺死かな  曽根 毅 

句集『花修』(深夜叢書社)より。第4回芝不器男俳句新人賞の受賞者。この句が寄物陳思の類に入るかどうかなのだが、比喩が意識的に作られているようで不自然のようにも思える。なるほど「くちびる」は「花びら」でもある。そのように思えることはある。だが、「…とする」ということは物で心を表現すことではないのである。意味を説明していることで心を伝えることとは思えない。…その思いを強くすのだが、これは俳句ではない。この句は一行詩としての文体のように私は思える。俳句は美意識を心で感じるものでなければ…生きるのに疲れた時、俳句は癒しの栄養素になります。とは言えない。俳句に使われる言語は意識して作り上げられた言葉であってはならないのである。心中より自然に発声される心を大切にしていなけれは心を癒すもの、また生活の糧などにはならないのである。そのことは心のなかに誰もがもっている美意識を生むことであろうとはしないのである。

 ここで【美意識】とは何。デジタル大辞泉によると次のように記載されている。

美しさを受容したり創造したりするときの心の働き。

「物」に接し、目視し、そして美しいと心で受け入れたときに生ずる心の働きと記されている。意味を述べて説明することではないのである。しかし現代俳句のなかには言葉表現そのものが意味を求める傾向にある。感覚は意味を追求することや訴求するところから出てくるものではないのである。心で受け止めたときのその心の働きなのである。言葉先行の観念語や作られた意識操作語を十七音の中の主体にしようとする傾向は…生きるのに疲れた時、俳句は癒しの栄養素になります…ことにはならない。俳句は心を癒すものでありたい。まさに俳句を作るメリットは生活してゆくことのポイントでもあろうと思う。 

 だが、言葉が意識的に動かされても寄物陳思を思わせる句もある。 

   あめんぼに是非来てほしい洗面器  仲 寒蟬  

句集『巨石文明』より。ここにあるのは目視による具体的な物は「洗面器」だけである。言葉が説明的のように配置されてはいるが、物を踏まえてのもの。目視の果てでの心に残る言語である。意識して作られても…作りものと思わせなければ、立派な心の表現になる。ここには私性の文体があったのだ。作者にとっては日頃より思っていることが、物を目視することによって現実のものとなって蘇る。心の中だけではなく、目の前のものが目視の彼方にあることとして認識する。いま心を癒す時を作っているのである。この句にある言語は意識して言葉を作っても作者の作り言葉とは思わせていない。それは作者の日頃から思っている真実言葉であったからで心遊びは充分に出来ている。

   処分する風鈴いちどだけ鳴らす  仲 寒蟬

   手袋を出て母の手となりにけり  仲 寒蟬 

これらの句の根底をなすのは俳句における…心遊び。ただ気をつけなければならないのは意識作用が強すぎると、わざとらしくなり、言葉だけのものになる。心の伝達が不自然にならないことが望ましい。

 心遊び…作者の心の状態が定まらないで揺れているとき、正常な安定した心理に戻す、その時にいろいろな癒しを求めて心が動く、その様子を表現にして示す。日々の生活が繰り返されてゆく中で俳句での心遊びは大切である。感情の揺れをコントロールし安定させる気持ちの切り替えは俳句で出来る。

   月もまた前傾姿勢寒波来る  岡崎淳子

   晩年の右手に弾む手毬唄   岡崎淳子

句集『蝶のみち』より。目視により心に映った作者自身の思考の形が「月の前傾姿勢」であったのだ。寄物陳思によって編み出された心の弾みは「手毬唄」にもしてしまう。上弦か下弦の半月の前屈みの姿を、作者は自分自身として確心。それは前進しようとする心の姿勢である、半月が前傾させようとする形を作る時、自分自身を投影させ、寒波へと立ち向かう心の安心を受けとっている。その時の心の弾みこそ、心を自由に遊ばせる岡崎淳子さん自身であったのだろう。日日の一切から解放される楽しく美しいほんの一瞬。ここには心遊びがある。正に寄物陳思による美意識が込められているのだ。生きていることの実感が一瞬、喜びに行き着き心が美しく思えることの素晴らしさ。作者にとっては一瞬一瞬の思いは心の弾みとなって蘇生するのである。心遊びにより癒されてゆく寄物陳思であった。  

 俳句は…心遊び…である。日常の日々に傷つき悩み苦しむとき。癒しの心で心情を安定させ明日への弾みに向かう心を育てる。それは心遊びであろう。

「歯車」の代表であった頃の鈴木石夫先生は、今の私たちにこの心遊びの重要性を懇切丁寧に諭されていたように思う。生きていることの楽しさを俳句にすること。生活の日常を俳句として心遊びする、心を癒して人生を楽しくする。平成・令和の今の社会にあって、自分自身を感じとることすら出来ず、自分の心も開けない、そんな中にあって自己表現の出来る場としての俳句である。心遊びの要素がどれほど大切であるのか、示して下さったのは石夫先生であった。俳句を作り続けることの意義を私たちに遺して他界。

 …これが私の俳句だと言えるものが出来るまで続けなさい。

改めてこの言葉が心を打つ。決して忘れてはならない。心遊びは私の俳句である。私がわたしを癒すことでもある。石夫先生の心遊びの俳句とは…心を癒すこころを大切に保持することであった。私が俳句を作り続ける所以である。