「句には姿というものがある」の言葉……松尾芭蕉
児 島 庸 晃
俳句の選句をするのに、私たちは何を基準にしているのだろうかと何時も思うことしばしばの最近である。人によっては選句するとは言わないことも。入選句、特選句とも言わない。ただ単に選をすとも言わない句会もあるとのこと。このように考えてみると何も基準などないではないかと、考えてしまうのが、通常なのかもしれない。では、どのようにして選句をしているのだろうか。すこし戸惑いのようなものが各人の脳裏に残る。でも、句会が行われているのは事実である。一句の良し悪しを巡り一時間にも及ぶ句会になったことが、過去ではあるが私の体験のなかにあった。その時の決着が実に的を得た結論であったのだが、いま思い出してみるになるほどと頷くものであった。
その頷けるものとは…。その人、その人の個性を尊重するものであったのだが、問題を投じた作者を傷つけるものではなかった。薔薇色の決着であった。ただ一言、司会者の実に粋な心配りによるものだった。「好きな句」と「それほど好きともいえない句」の言葉であった。なるほどと私も思ったのである。良い句、悪しき句と言う評価をしなかったのだ。それぞれ選をする者にとって俳句の価値基準など判断出来るものは、そんなにたくさんはいないだろうと思う。大方のものが良し悪しではなく選者の好みに添った好き嫌いで選ばれているのではないかとも思う。だから突き詰めて考えると、入選句、特選句とは、その呼称に相応しくないのかもしれない。もう一歩、話を進めてみると、選句者の好みによるところの好きな句と言う事になるのかもしれない。もっとも真剣に選句をしているので大切な一句ではある。俳句はもともと俳人各人の感覚と思考が十七音と言う限られた文体の中に籠められているもの。思いを籠めることそのものすら難しいもの。ましてや思いを万人に伝達するなど、とてもやないが至難な技。俳句の良否を決めることなど出来るわけがない。
そこで私は、ずーっと以前から頭のすみっこに残っている言葉があるのだが…。次の俳人依光陽子さんの言葉である。
…まず断っておきたいのは、俳句にとって何より重要なことは言葉が十分に機能しているかどうかということだ。どれだけ喚起力を持ち、詠み手の想像力に対して自立できるか。どれだけのものの手ごたえを備え、新しいリアリティを顕現できるか。つまり現場に立たずとも言葉が機能さえしていれば読み手に受容されるし、言葉が機能していなければ現場があってもそれはただの意味に過ぎない。
この発言は「私的現場孝」というタイトル、総合誌「俳句研究」平成17年3月号に掲載された文章の一部分である。言葉の機能伝達が如何に大切であるのか。この伝達の機能の仕方により好きな句、好きでない句の選択が読み手に受け渡されることになるのだ。俳句は十七音と言う文体ゆえ幾つもの削り落とされた言葉がある。数多くの言葉とのたたかいのなかで残った唯一の言葉、それが俳句の言葉なのである。当然読み手は表面に出ていない言葉の部分までも感じとらねばならない。このときの感受の強い弱いにより好きな句、そうでもない句が生じる。
かって以前、私が読んだ『去来抄』の一部分を思い出していた。この本は向井去來が松尾芭蕉からの伝聞、蕉門での論議、俳諧の心構え等をまとめた俳諧論書である。
句の発案に対し「去来よ、おまえはまだ句の姿というもの
を知らないのか」との言葉。元禄七年のこと。これを支考
が「風姿」として説いている。これまでの「風情」を「風
情」と「風姿」のふたつとして区別している。私見だがこ
のことは感情や理の勝ったものを冷静に見つめる必要によ
り、「姿」もしくは「形」がいるということである。
この二つの基本的な思考のほどを考え私なりに思ったことは。…俳句には名詞主体の句と、動詞主体の句があり、それぞれに伝達を容易にする言葉が好きな句として表現される。そこで風姿と風情が句の中に登場してくる。風姿は名詞主体の句であり、風情は動詞主体の句ではないのかと思う。風姿は品格を重んじ、風情は情感を尊重することではないかとも思う。
名詞主体も動詞主体もどちらの句も十七音ではあるが、表現には工夫がある。 ● 名詞主体の句こそイメージ重視のこころ風景
名詞には従来からの固定されたイメージがあって、私たちの日常の生活のなかで何時も同じく変わることのない感覚がある。その感覚から生まれた俳句がイメージ俳句であ
る。従来からの固定された名詞のイメージと作者独特の感覚による新しいイメージの対比が心の緊張感や臨場感を生むのである。
蟬時雨餅肌の母百二歳 金子兜太
この句、二〇〇四年「俳句研究年鑑」自選欄より抽出。これは名詞主体の句である。何がこの句を面白くしているのか。勿論、名詞の言葉である。金子兜太独特の感性により句を支えているのだが、それは「餅肌の母」である。百二歳の母を見つめる兜太の心の緊張感が読み手に伝達されていての言葉の機能が果たされているのだ。全く新しくて従来の生活感覚ではないもの。新鮮な機能伝達を完璧にまで尽くした句である。
ここで俳誌「歯車」の女流より、考えてみたい。
病得てどんどん優しくなれる秋 岩淵真智子
まんじゅうがひとつ足りない初句会 桐山 芽ぐ
九十八歳朗々と春の歌 飛永百合子
お花見の右ポケットに家の鍵 児島 貞子
たんぽぽのぽぽっとぽぽっと野の仏 諏訪 洋子
小春日や管理事務所に鼻眼鏡 栗田希代子
噴水のクレッシェンド夢はそこ 藤本裕美子
耳朶はいつも冷静秋初め 椎野 恵子
十二月八日オノヨーコ氏の鼻眼鏡 松元 峯子
麦秋や水の近江の転作田 勝又千惠子
ここ二年ほど前から注目していた女流俳人の名詞主体のである。名詞といっても普通名詞、集合名詞、固有名詞、物質名詞、抽象名詞、の五種類があり、場所や動物、植物
を示す固有名詞が主に句には登場している。一句目の「秋」は抽象名詞で無形のものを示し、また、「病」も無形で抽象名詞である。にも拘らず句は抽象にはならず、具象である。何故だろうと思う。「どんどん優しくなれる」という作者の心が句を緊張感へ導いているからである。二句目の句は「まんじゅう」という固有名詞。「初句会」という集合名詞。何故面白いのか。「まんじゅう」は本来は固有名詞としての存在は一個としてのもの。数が集合しての集合名詞の「初句会」の人数に符合して、「まんじゅう」が集合名詞に変化するから諧謔性がうまれるのである。四句目の句は固有名詞が三つもあるもの。「お花見」・「ポケット」・「鍵」とそれぞれ独立した名詞にも関わらず、句はばらばらに分離してはいない。何故?。ここにも「に」という工夫がある。この接続詞が大きな役目をしているのである。
しかし、ここには「風姿」のさまざまを見ることが出来。情感がむき出しにはなっていないのだ。名詞のもつイメージによるところの表情が、かなりに抑えられているよう思う。これは名詞の持つ特性なのかもしれないが。いずれにしてもここには句としての品格が保たれているように思う。このように名詞主体の句にはいろんな趣向が籠められての一句が成りたっているのだ。ほかの句についての解説はしないがそれぞれ工夫がある。どのような工夫があるのか考えていただきたい。勿論、作者が意識して工夫をしているわけではない。
- 動詞主体の句は情感の表情
俳句には、直情と、それを抑えようと意識する、批判的な心が何時も同居して作者の胸中を苦しめる。そのときの方向性を示すのが、動詞の存在である。ときに作者の思いとは全く違う情感を示し突然の直情を奏でて句を定着させてしまうことがある。…その修正に次の句を思い出す。
峡深し夕日は花にだけ届く 稲畑汀子
ふたりして月の匂いの森に入る 鳴戸奈菜
秋は白い館を蝶が食べはじめ 西川徹朗
私はこの三人の句を思い出しては私を修正してきた。何れも動詞主体の句である。ここに採録した三句はどの句も終結部分に使われていて工夫することの意味が見事にその効果を示すものであると私は思ってきた。
「峡深し」の句は二〇〇四年「俳句研究」年鑑自選句で出会うことが出来た句。この句を見た瞬間に私の常日頃の句に対する悩みがいっぺんに吹っ飛んでいた。いったいこれは何なんだろうと、思う日々であった。どうしても作句のときの直情が出てしまう。それを解きほぐすものであったのだ。そして私に見えてきたものが動詞の使い方にあると知った時が未だに忘れられない。その動詞部分の「届く」は他動詞で主語以外への動作、作用を表す動詞。文献によると「…を」、「…に」の修飾語に続くとある。したがって「花に…」に続き他動詞である。この句では主語は「花」なのだが、他動詞の使用で「花」ではなく、この「花」は「私」へと変化してきて私性の文体になるのである。ここには私の主張がはっきりと表現され寄物陳思の句ながらも正述心緒の趣を内在して深みのある句になっているのである。見事な言語の使用に教えられた句であった。
「ふたりして…」の句は二〇〇七年「俳句研究」一月号「露景色」の12句の中の1句である。「森に入る」の動詞は他動詞。主語は「森」なのだが、やはり「私」に変化。しかも、「ふたりして」という言葉も動詞。この「…して」は補助動詞。またの名を形式動詞ともいう。本来の動詞の意味が弱くなり補助的な役割で使われる動詞。文献によると「…て(で)」に続くとある。一句のなかに二つの動詞が使用されていてすこし句の方向性を混乱させ、普通は主体を混乱させるものなのだが、この「…して」は補助動詞で動詞の意味を弱めている。したがって「森に入る」の言葉の方へ動詞の意味主体を向けているのだ。読み手をしっかりと引張り句の緊張感を強めることに成功しているものであった。
「秋は…」の句は一九七二年「渦」四月号より、第二回渦賞準賞作30句の中の1句である。私が注目したのは「食べはじめ」の動詞の使い方であった。行動や作業を表す動詞の「食べはじめ」ははっきりとした作者の意志を示していてこの動詞は自動詞である。文献によると「…が」「…は」「…も」の主語に続くとある。ここでの主語は「蝶」なのだが、「秋は…」という抽象名詞があり、この言葉も主語である。二つも主語を使用していながら句そのものがばらばらにはならない。何故なんだろうと思う日日。ここで解ったことは主語にも主従ががあり、大きな主語と小さな主語が仲良く同居して快いハーモニーを奏でているのだという事。この「食べはじめ」は「秋」と「蝶」の両方へ意味をなすものだと思えたのであった。自動詞とはこのような使い方が出来て心を豊かに緊張させてくれるのだろうと微笑んだ思い出がある。
動詞の作用はまだまだいろんな方向性を示しながらも吃驚する貴重な言語なのである。俳人個々は、普段あまりこのような私が体験したようなことを意識して作ってはいないだろうが、句を読んでいて心を刺激する時がある。そこには目を止めて見てしまうだけの理由があると思う。何かが発見できると思うので考えてほしい。動詞主体の句の特性は、何よりも風情を感じ情感を最も尊重する句の姿でもあった。
選句することの意味の是非を句会の中で行うことは容易ではないが、何故句会での入選句・特選句の判断がなされるかを俳句独得の特性より考えてみたのが、今回の私の検証であった。好きな句・それほど好きでもない句の判断基準が名詞主体句、動詞主体句、それぞれの魅力より引き出して考えた結果、そこには『去来抄』における「風情」と『風姿』の心に由来してのものであった。句の品格と情感の尊厳が選句のときの好き嫌いの基準ではないかと思うようになった。