文芸通信…こころの散歩④

         神戸新聞読者文芸 小説部門入選作品

       午前五時四十七分   児 島 照 夫(庸晃)

            (2003年2月17日朝刊掲載)

     

 一九九五年一月十七日午前五時四十七分、時計の針はここで停止する。まるで宿命づけられているかのように時計は止まっていた。夜の明けきらぬ街を、その時と同じように時の止まった時計塔を私は探していた。二〇〇二年二月十七日、国道43号線を私は歩いていた。歩きながらも緊張していた。

 阪神・淡路大震災が起こったその時、私は神戸の百貨店に勤務し、警備の仕事をしていた。突然の音響に身体が浮き上がった。ゴーンと音が出て私の身体は一メートルほど宙に舞い上がっていた。不意を突かれて何がなんだかわからなくなっていた。気がつくとコンクリートの壁の下に私の身体はあった。勤務の最中で、交替制の仮眠の時でもあって、本来は気分的にリラックスしている筈の私であったのだが、腰のあたりから痛みが込み上げて来て眼前が真っ暗になった。痛む部分に手を当てて私は暫くじっと耐えて我慢していた。やがて背骨が痛みだし脳天を貫く。急に仕事の事を考え、頭の中は混乱していた。ゆっくりと立ち上がり痛む背骨を抑えた。「まだ生きている、生きているのだ」と自分に私は言い聞かせた。ビルの四階で仮眠していた私は階下の警備本部へ下り、座り込む。防災機器の全ては、あっちやこっちに飛び散り、倒れ傾き、その姿は形をとどめてはいなかった。それどころか自動火災報知器からは容赦なく警報音が鳴り響き耳を劈く。先程まで勤務していた警備員は倒れ、ある者は這いつくばって地面を抑えていた。地震の揺れはまだ続いていて、スプリンクラーの水を降らし続ける。私は全身にその水を被り身動き出来ない状態になっていた。またしても私は「まだ生きている。息をしている。ちゃんと呼吸をしているよ」と胸を叩いた。我に返って元気を取りもどそうとするが背骨の痛みは、ますます強くなるばかりである。誰ひととりとして立ち上がろうとする者はいない。私は痛む部分を手で押さえ立った。そして早朝出勤務の人たちのいる地下一階へと歩きだしていた。それはじっとしていられない私自身の気持ちでもあった。地下一階の出入り口のドアの鍵を開ける。パンの職人さんたちは悲鳴を上げていた。私は大声で「出口はこちらです。こちらへ来てください」と必死で叫んでいた。すでに自家発電用の電源は能力を使い果たし、真っ暗な中に人の声だけが響き渡っていた。「助けられるべきは私ではなくてこの人たちなのだ」と「ここで出られるべきドアが閉まっていたのなら」と私は思い、十数人の人たちの命を考え、鍵を開けている手は震えていた。そう思うと私の身体の痛みは何処かへ消えていた。この時、私自身「まだ生きていると」思った気持ちが恥ずかしくてならなかった。自分だけが生きていると考えたこと。そして多くの生きようとしている人たちがいることを、すぐに思い至らなった私を恥ずかしいと思う。地下一階の内部はスプリンクラーの降水音だけが、やたら大きな音を出し私を集中攻撃してくる。暗闇の中で水だけが不気味に響くだけである。その悲鳴は暗闇の中で一際だって耳に届く。右からも左からも絶え間なく響き続いていた。真っ暗な中で声だけしかない。声のする方へ歩き出していた。私は咄嗟に身を乗り出し、両手に震えを感じた。「この人もあの人もみんな生きているんだ」と思い、両手を出し倒れている人を抱え上げた。腕の中でその人は泣いていた。その人は泣きながらもコンクリート片の下に埋もれていた。だがその人は「私を助けて、助けて下さい」とは言わなかった。必死に痛みに耐えながらも泣いていたのだ。それよりも私に向かって「怪我はなかったですか、大丈夫ですか」と「まだ揺れているので気をつけて下さい」、その人は私への気配りをしていた。人間とはいったい何なんだろう。この切羽つまった瞬間にお互いがいたわりあえる心を持つこと。持ち続けることが出来る、この心の大切さを切実に思うのであった。何かの事が起こった時、人間は優しくなれる。心が優しくなれる時、人間は本当の心を受けたり渡したり出来る。限られた極限の中で何が出来るかを考えると、それも人間の仕草なのかもしれないのだ。人は心細いもの、か弱いものなのだと思う。この時、人はお互いを助け合う。私は必死でその人を両手で引き寄せた。顔と顔があったその時、どちらからともなく笑いが出た。微笑というような生半可なものではなかった。信頼というお互いの心のやり取りを私は素直に感じていた。信じ切ることの大切さを、その人も知っていた。

 

 地震発生直後から私は館内を走り回った。地上九階、地下二階を上へ下へと足を滑らせつつも必死であった。まだ揺れている館内を身体ごと揺すりながら走っていた。天井からはスプリンクラー水が容赦なく降る。扉は壊れていて開くことはできず、床はずれ落ち全くない所もある。私は生存者を探して走った。真っ暗な館内を声のする方へ、それも声だけを頼りに動くのだ。声は時々掠れて聞こえにくくなってしまうのだ。私は耳にだけ全神経を集中させていた。「あの声はまだ生きている筈だよな」「この声は力尽きたのかな」「ああやっぱり駄目だったのかな」と思いつつも耳だけは冴えていた。私の側から人の声が消え、物音がなくなり、静まる。私は瞬間に蹲った。まるで何事もなかったようになっていた。「みんな息絶えたか、呼吸も絶えたのか、死に絶えたのか」と「生きていてくれ、何処かで生きている筈だ、きっと生きている」

時が経て、ビルの外から少し明りが入ってくる。ビルの床は二つに割れ、大きく亀裂が出来ていた。床は傾斜し、六十度ほどの勾配で傾いていた。明けかけた朝の光はビルの館内をくっきりと写しだし、私は吃驚の声を上げた。あっちにもこっちにも壊れたコンクリートの塊が散乱していて、その下から人の足や手が出ていた。私はじっと目を凝らして、その光景を受け入れた。咄嗟に私は「動いていると」と足を踏み出していた。「今そこに行きます。すぐ行きます」。駆け出したが足元に瓦礫が散らばっていて思うようには動けない。「生きているのだ、生きていたのだ」と 心躍らせ私は両手を差し出した。その両手の指先は震えていた。指先の震えは感動した時の心の喜びであり、生きていてくれた喜びでもあった。私はその人に「生きていてくれてありがとう」言葉を発した。その人は私の顔を見ながら微笑む。「本当にありがとう」と。「助けてもらったのに、僕こそお礼を…」と。「私の心は生きていてくれたことで浄化され、嬉しいのですよ」。あの人、この人と床面に投げ出された人たちは、ぱたりと動きが止まった。朝の光はよりくっきりと周辺を照らし出しその悲惨さを写す。手や足からは血が流れ、腕や肩の一部には皮膚がはがれ落ち、肉片は花びらのように咲きかけていた。私の目の中に赤い血の色だけが焼き付いていた。この時、私の腰の痛みは頂点に達していた。この血の色は私の痛みを触発してしまったのだ。私はその場に倒れた。

 

 気づくと十数分が経っていた。私はゆっくりと立ち上がり周辺を見た。瓦礫の中に、瓦礫の下に人々は埋もれていた。外の方では救急車のサイレンが鳴り響き、周辺一帯を走り回っていた。やがて救急車が着く。先程まで静かだった場所は騒音に変わった。「助けて、こっちよ」一斉に声が広がる。私はこの光景に愕然とした。肩から足から力が抜け、その場に座った。「何ということなんだ、これは一体何なんだ」。私は独り言のように呟いた。このわが先に先にと競う心を思う時、私は愕然としたのだ。そして担架に乗せられていった人たちの事を考えた。必死に生きたい気持ちは解るにしても、あまりにも我儘過ぎはしまいか!誰だって同じ気持ちの筈ではないか。一月二十日、私は勤務を解かれた。これより甲子園までの道を、国道43号線に沿って自転車で走った。走ったと言っても自転車を押して歩いたと言った方がふさわしいのかもしれない。途中、阪神高速道路の高架はその下の国道へ落下、ひん曲がった形で全容をさらけだしていた。元町から三宮へ大石へ、そして御影へ芦屋へ西宮、甲子園と五時間かかって我が家へ着く。やっとの思いで瓦礫を超えた時だった。眼前に大きな塔があり、そこに時計があるのを知ることになる。短針は五時、長針は四十七分、扇形のまま止まっていた。

 

 阪神電車大石駅で降り、私は今43号線に沿って歩いている。この時計塔を探して歩いていた。レストランの前の道を浜側へ少し入った西側にあった筈である。私はいろんなことを思い出していた。当時この道路は高架のコンクリート塊でいっぱい、高架の崩れには乗用車がひっかかり、今まさに落ちようとしていた。車の窓からは人の身体がはみ出ていて、すでに死んでいた。この国道を人々は難民のように東へ向かっていた。肩から毛布をたらしその列は500メートルはある。ゆっくりと時々は倒れそうになりながら、とにかく前進していた。だが、突然、この人たちは急に足を止めた。私は唖然とした。振り向くと人々は急に元気を出し一気に走りだしていた。すでに死んでいる人に向かってだった。「あっ、泥棒だ」と大きい声を出し叫んだ。崩れた高架から落下寸前の乗用車へ向かって走る。人々は死体へ群がり衣類のポケットから財布を抜き取っては歓声を上げていた。一人が抜き取ると瞬く間に十数人の人だかりになった。人々の手によって死体は落下した。やがて競い合った人たちに静寂が戻る。何事もなかったように難民の列は続く。とにかく私は東へ向かって歩いた。途中、難民は血だらけの皮膚を冬の日に照らし、病院へと向かう。だが、病院の前には多くの人たちによって溢れ、そこにも傷だらけの人が地に寝そべっていた。私は痛む腰を抑え、ただ前へ向かって歩いて行く。生き残り、歩き続ける人の光景を心に刻む。私は少しばかりの安心と生きれる勇気をもらい続けていた。死体へ群がる人々の姿を思い出したくはない。手で押したり、走ったりの自転車を側にして甲子園までの国道を東へ向かっていた。ただ歩くことだけ。とても行くあてなどなかった。そんな中から一人二人と倒れていく。咄嗟に近付き、私は声を掛けた。だが、もう返事はなかった。その人の肩に胸に手を当て呼吸をさぐるが息はなかった。私はその場に座り、手を合わせた。抱きかかえようとする私だったが重くてどうしようもなかった。必死だった。

「手を貸して下さい」

近くの人に声を掛けるが誰ひとりとして声は返ってこなかった。

「ほっておけばいいのに!」

やがて遠くの方から人声がした。私はその場にしゃがみ込んでしまった。もう一度、合掌しその場に座った。

 私は今、嫌な思い出ばかりが蘇ってくる。思い出したくはないが、しっかりと胸中に刻むために、この時計のあった場所に来たのであった。午前五時四十七分。忘れてはならない記憶を胸のなかにくっきりと受け止めたかった。時の止まった時計塔は取り壊され、なくなっていた。歩き続けている私の遠く東の空から夜が明け始めていた。