感情…それが文芸である 

 私達の心には…襞(ひだ)…がある。その襞に多くの物がひっかかる。その時の感触を、私達は…感情…と呼んでいるのではないかとも私は思う。物事に共感するとそれそのものが自分自身の経験と重ね合わさる。そのことによって初めて生まれる感情…それが文芸である。あらゆる文芸の中で最も強く端的に表に出てくるのが短詩系である。その短詩系の中において緊張感を伴うのが俳句である。この5・7・5の定型では無駄な言葉は許されない。ここには臨場感や緊迫感がこめられていなければ読者の心を呼び込むことは出来ないのだ。心の襞に物事が触れた瞬間の新鮮な感動。それが俳句の最も大切な瞬間なのである。多くの俳人は物事に感動する心を忘れている。感動するって…どんなことなのか? 日々の生活や日常の出来事にどれだけの感動を覚えることがあるのだろうか。考えてみれば殆ど感動を知らない日々を過ごしている私になっていた。そこで物事に感動することの本質が俳句には大切なのである。

 だが、日頃から何時も事物に感動する心は、そう簡単には出来ない。目視したその瞬間にだけ、感動すると言う事などは、どの俳人にだって、これまで可能にはなされてはいないのである。

   当分は上見て歩く 花日和  伊丹三樹彦

句集「当為」平成28年、第26句集より。作者満96歳の心の句集である。作者満96歳のいまあるべき姿がプラス思考の詩心により語られているのが、この句である。何がプラス思考なのかと言えば、物事に何時でも感動出来る心を持ち続けて生きている事。その俳句言葉は「上見て歩く」。ここには作者の生きている、或いは生きて行く心の在りようがプラス思考で満たされている。ここでは生きている、又はこれまで生きて来られた事の感動が一杯ある。多分だが作者の目視の中には「上見て歩く」の動作より…青空…を見ていたのだろうと私には思える。容易にはこの…青空…を見ていても「上見て歩く」とは言えないだろう。満96歳の心には受け入れ難いものなのだろうと私には思える。日頃から純粋の心を保持して生きて来たことが私には理解出来た。事物を目視していても作者自身が純粋になれていなければそう簡単には感動は出来ないもの。心を真っ白にしているからこそ事物に感動出来たのである。

 何でもない光景から、その目視から、感情の発露をキラキラとした感情へ、その感情が感動へと作者の心を変革させたのが次の句である。

   このまま眠れば多摩川心中犬ふぐり  諧 弘子

第一句集「牧神」1998年刊より。諧(かのう)弘子。20代の頃の作品である。この句は作者も感動しての心だったのだろうが、私は…なんという感動を呉れる句なのかと思った。俳句の発端は感動から始まるのだが、このことは読者の共感を得なければ作者の感動へとは繋がらない。作者が純粋になれていなければ感動も湧かないのだが、読者も純粋になれていなければ作者の感動を受けとることなどは到底出来っこないことを、この句は私に教えて貰った句でもあったのだ。この句の感動の原点は何であったのだろう。作者の目視の中に目覚めてある俳句言葉「このまま眠れば」の実感。この俳句言葉は、心の襞にひっかかる。ふあっと心にある不安感は誰にでもある。この句の場面の二人には心中という最終の思考しかないところまで行っているのだろう。それが「多摩川心中」の俳句言葉なのだ。

 事物に感動することの原点を求めて、いろいろと事例をさぐっての検証を試みた。多くの目視は、その時の心の襞にひっかかり心を刺激はするのだが、作者自身感動の心にならなければただの事物の報告になってしまうことを検証した。俳句の始まりは「ああ」と言う作者の心である。そしてそれは純粋の心になれていなければ、「ああ」と受け止める心にはなれない。またそれを受け取る読者も純粋の心になれていなければ、作者の気持ちへとは繋がらない事を事例で示した。事物を目視したその時の瞬間のその感動が俳句なのである。その心の艶の具象化、即ち事物と向き合った感動は純粋な心でなければ、「ああ」と言う、その心は生まれない事を私は多くの句に触れることにより知ることが出来た。人間の心の原点は感情である。感情の発生も、また受け取る側の原点も感情は全ての文芸の原点である。