真実純粋にそのことを思わなければ出来るものではない……俳句の心

                            雲水の行きてもどらぬ橋や霧  児島庸晃

 はっと驚き一瞬立ちすくんだのは私だけではなかった。何気なく前を見た瞬間だったのだが、そこには袈裟懸けの男が歩いていた。秋の夕暮れのことである。つるべ落としの夕べ、橋に灯が入りかけていたその僅かな輝きに照り浮くように男の姿はあった。これは雲水ではないか。武庫川大橋…ここは国道2号線上にあり西宮市と尼崎市つなぐ貴重な交通の要でもある。24時間長距離トラックや通勤車の途絶えることのない国道に架かる大橋である。いま男は車の行き交う橋の上を東へ向かっていた。前をしっかりと見据え一歩一歩地を踏みしめて歩く。裸足の動きには些かの戸惑いもないくらい規則正しく前進するのだ。「何故に…」に声をかける私に「すべてが狂ったのですよ」と。私は暫く同行することにして男に興味を持ったのだが、その昔のことを話してくれるのだ。「昭和45年ごろのことですけどね。学生運動にのめりこみましてね。日本を良くしようと燃えまして革命などを起こそうとしましてね。頑張っていたのですが、いまはそんな夢などなくなりもう老人ですよ」…そうだったのか。と私は心が真っ暗になった。考え込む私の傍に夕霧が来る。男はその彼方へと消えて行った。あの頃昭和45年頃は安保事件に始まり狂乱の世の中であったのだ。そして社会にたいして敏感に反応立ちあがったのが大学生、高校生であったのではないか。…そしてその狂乱を俳句にしようと私も立ち上がっていた。このおかしくも笑えない涙の苦しみを句にしようとしていた。「例えば単純に水面から笑って顔上げる」「しーんとつーんと朝ずーっと枕木の風景」…これら私の句をファンタジックミステリーと当時私の周辺にいた坪内稔典は言った。この時、何よりも私を奮い立たせてくれた俳人が伊丹三樹彦であったのだ。

   古仏より噴出す千手 遠くでテロ    伊丹三樹彦

俳誌「青玄」130号、昭和35年11月号に7句発表の中の一句である。千手観音を探訪しての句であるが、三樹彦の心の内にはとてつもない大きな思想なり世界観があったのであろう。来る日も来る日も街にはデモ群が溢れ罵声が発せられていた。樺美智子と言う東大の学生が警察の暴挙ともいえる攻撃にあい圧死をとげた。社会党の浅沼委員長が17歳の右翼少年に刺殺された。安保改定阻止のデモ隊は岸首相を国会にとじこめ、全ての行動を無策にした。昭和35年11月狂乱の世の中をふるいたたせた一句である。批判的リアリズムの真っ最中でもあり、この句が人の眼を奪ってしまったかの一年であった。いろんな作家がこの状況に挑戦した。大江健三郎は「セブンティーン」いう小説を発表し、世に問うたし、鈴木石夫は「歯をひっこめて樺美智子の声を聞け」と絶叫した。だが誰ひとりとして真実をまとめ上げることはできなかった。瞋怒相と化した古仏を目前にひきだしてまで、俳人は主張をしなければならなかった。ものを語り、真実を伝えつづけなければならない一俳人の使命を、私はただただ思い入っただけだった。この俳人魂をだれが作りものだといえるか。真実、純粋に、そのことを思わなければ出来るものではない。当時の私は三樹彦作品の原点は…ここにあると思った。                  (2008年10月18日記述)